雪景色も終わりです。 [日記雑感 13年]
「アンタ、いつまで冬の格好してるのよぉ~
もう春なんだから春らしくしてよ」
お父さんは聞こえないフリをして、「プー太、散歩にいくぞ~」
3月末から暖かくなって4月に入ってからは
あちこちに土や枯れ草が見えてきました。
残っている雪は汚れて黒くなってるので
ボクの足は散歩のたびに真っ黒になります。
白い雪もこんなに汚れています。
大きな通りはもうほとんど雪がなくなりました。
畑には土も見えてきました。
冬の間、寒い記事ばかり書いてきましたが、待ちに待った春がきました。
今は「今年も無事に冬が終ったな~」という気持ちですが
やがて70歳を超えて80歳くらいになったら
「今年も生きて春を迎えれたな~」という気持ちになりそうです。
でも本州や九州の地獄のような暑さがないので
次の冬までは快適な季節が続きます。
と言っても、去年のように
5月になっても雪が降ることも珍しくないのですが・・・
愛知県へ出発 [黒い玉手箱]
昔話が前後しますが
今回の昔話は高校を卒業して愛知県に行くときの様子です。
(画像はネットから借用)
国家公務員の試験が受かったとき、これで無事公務員に就職出来ると
安心して、滑り止めで受けておいた会社には
都合で入社出来なくなりましたと断ってしまったのですが・・・
しかし試験は受かったもののなかなか公務員採用にならなくて
周りはみんな進学や就職が決まった頃3月
私もいよいよ焦ってしまい、何ヶ月か前に断ってしまった会社に
事情が変わったのでぜひ私を使ってくださいと手紙を書きます。
一度断ってしまったのでもうダメかなと思っていたら
その会社の人事部から、ぜひ来てわが社で頑張って下さいというような
手書きで心のこもった温かい返事が返ってきました。
その会社は今や世界のトヨタ自動車
こうして愛知県に行くことになりますが、このときはまだ公務員の
空きが出来たら、すぐに北海道に戻れるんだからという気楽な考えです。
1968年(昭和43年)4月
当時は飛行機なんて贅沢、国鉄で2泊3日の予定で故郷を出ました。
朝~故郷を出発、途中で宗谷本線に乗り換え夕方札幌着。
夜~寝台列車で札幌出発。
2日目
夜~寝台列車で青森出発。
3日目
朝~東京に着いてから東海道本線で名古屋に向かう。
午後~名古屋に着いてから名鉄電車で豊田市へ。
夕方~指定された旅館に到着。
こうして寝台車に2泊して無事に豊田市に着きましたが
途中での忘れられない思い出をひとつ。
青森駅に着いたときは高校生の下校時間だったので
駅の中にはたくさん高校生がいましたが
私のすぐ近くの女子高生同志の会話を聞いてびっくり
ぜんぜん言葉が分からないのです
津軽海峡を渡ったらここはまるで外国??
後日、東北出身の人にそんな話をしたら
津軽は東北の中でも、まったく別な国のようだと聞いて納得出来ました。
東北の人がそう言うのだから私に津軽の言葉が分かるわけがありません。
トヨタ自動車は大会社だけあって全国から人が集まっているので
言葉を聞いてるだけでも面白いし、何ヶ月かすると
この人の出身は何県の方だろうと少し分かるようになってきます。
しかしあの青森駅で聞いた女子高生の津軽弁は
まったく意味不明で、外国語みたいな言葉には驚いたものでした。
いま考えてみると寝台車に2泊もして行くのなら
千歳空港から名古屋空港(小牧市)まで飛行機で行っても
たいした料金も変わらなかったかもしれません。
こんな長距離で3日もかけての列車や船の旅は
その後経験してないですが、まるで集団就職の個人版のような長旅でした。
この日は旅館で一泊、翌日から寮生活と新入社員の教育が始まりました。
あとがき
もしもいま豊田市に行こうと思ったら、午後1時半過ぎ我が家を出発
女満別空港午後2時50分発~名古屋(中部国際空港)午後5時着
空港からバスに乗り、午後7時頃には豊田市に着いてしまうようです。
しかも早割だと16,500円程で行けるようで
航空運賃もずいぶん安くなったものです。
暑かった豊田市 [黒い玉手箱]
今日から2~3回、豊田市やトヨタ自動車工場の昔話をしたいと思います。
その当時の豊田市、人は男性の若者が多くクルマもたくさん
走っていましたが工場の街の雰囲気が強く、田舎者の私が
言うのも可笑しいのですが、なんとなく田舎くさい街でした。
私にとっての豊田市は働いて食べて寝るところ・・・
そんな程度しか思いつかなくて、思い出に残ったのは
豊田市を拠点にしてあちこち走り回った先のことばかりです。
そんなことなので昔話は
豊田市の記事を書くのが後になってしまいました。
豊田市の駅前大通りを写したカラー写真
すっかり色あせていますが、駅前の大通りで七夕の頃かと思います。
この近くにあった中華料理のレストランで
たまぁに少しだけ贅沢な食事を楽しんだことは覚えています。
当時の駅前大通り
商店街に入ると、どこを歩いても細くてカーブした道が多く
郊外も街の中も直線道路ばかりの北海道から出て行った私には
珍しい街の様子で、城下町のような雰囲気でした。
思い出と言ったらとにかく暑かったことばかり
真夏でも海からの冷たい風が吹く日は
夕方からストーブを点けるくらい涼しい故郷から
出て行った私には、豊田市の湿度の高い夏は強烈なものでした。
九州や沖縄から来ていた人達も
豊田市のほうが湿度が高くて暑いと言ってたのです。
あの頃、トヨタの工場の中は業務用の大きな扇風機をあちこちに
置いていましたが、真夏の暑いときに私はよく
扇風機のスィッチを切って仕事をしていました。
工場の中の空気が暑くなってるので
扇風機を回すと熱風になって襲ってくる感じなんです。
ネットで最近の豊田市の気温を調べてみたら
35度~37度くらいの日が結構あるので、当時もそのくらい暑かったのか
工場の中は窓や大きな扉は全開でしたが、機械の熱や窓から日が
差したりするのでかなり高温になっていたと思います。
水ばかり飲んで塩分不足に
なるのを防ぐために塩を置いてた職場もありました。
ただの夏風邪だろうと思ってトヨタ病院に行ったら
急性腎炎なのですぐ入院しなさいということで
人生ただ一度の入院(2週間ほど)も経験しました。
しかし体調も良くなるとまた元気に走り回ります。
おばぁちゃんを発見 [日記雑感 13年]
昨日は雪景色になってしまったけど
今朝は久しぶりにきれいな青空が見えました。
朝5時半の気温はマイナス4度、雪もところどころに残ってるだけです。
1か月前の写真です
4月20日:雪山もだいぶ小さくなりました。
緑のセンターの雪もほとんど消えました。
「あっおばぁちゃんだ」
春になるといつも自転車に乗って
背中を丸くして「ヨイショヨイシヨ」と
遠くから散歩に来るおばぁちゃんを見つけました。
お父さんが
「今年もここで会いましたね~
でもいつもどうして後ろ向きに坂を登るんですか?」
おばぁちゃん「この方が楽に登れるんでね~」と
ニコニコ笑顔が元気そうです。
よく見たらきれいに口紅も塗っています
今年もここでおばぁちゃんに会えたのでボクは安心しました。
坂道をバックで登るおばぁちゃん
お知らせ
お父さんとお母さんが午後から東京旅行に行きます。
お父さんは「帰ったら旅行の様子を書きたいな~」と言ってました。
ボクはペットホテルで帰りを待っています。
「お父さん早く帰ってきてよ~」
東京は寒かったぁ~ [川口旅行]
ワンワンわんわんキャイーン
東京から帰ってすぐにプー太の待ってるペットホテルに行くと
喜びなのか怒りなのかプー太は大爆発
寒いとは聞いていたので心の準備はしていったのですが
まさかあんなに寒いなんてまったくの予想外でした。
特に21日(日曜日)の最高気温、北見は10.8度そして東京は9.7度。
なんと北見よりも寒かったのですが
この寒さ4月としては48年ぶりというから
私がまだ美少年だった15歳(。・・。)ポッ♪のとき以来の寒さだったようです。
それでは簡単に旅行の様子を
東京に着いたら雨降り
気温も低くて北海道と変わらないような寒さです。
この日は羽田空港まで兄が迎えに来てくれたので
去年の夏のように電車を乗り間違える心配もありません。
土曜日なので通勤ラッシュもなく雨降りと寒さもあってか
モノレールもJR京浜東北線も、いつもの人の洪水もなく楽でした。
川口市に行く前に途中下車して
一世紀前の姿に復元された東京駅を見物です。
次の日も雨降りで寒かったのですが
兄がクルマで千葉県佐倉市を案内してくれました。
雨の中レインボーブリッジを見物
そして佐倉市に着きました
行き先は国立歴史民族博物館
原始時代から1970年頃までの暮らしの様子が
分かりやすいように展示してありました。
大きな展示室が6か所もあるので
ゆっくり見てると1日かかりそうなくらいです。
この雑誌、子供のころ夢中になって読んでいましたね~
江戸時代の模型
よくこんなに資料を集めたり、模型を作ったりしたものだと
思うくらい、ありとあらゆるものが展示されていましたが
また機会があればゆっくり見たいものです。
帰る頃には雨も止んで、高速道路からはスカイツリーも見え
秩父方面は晴れ間も見えてきました。
明日は晴れそうなので一安心して川口市に帰ります。
最終日
冷たい風が吹いていますが、ようやくきれいな青空になりました。
この日は日暮里(2度目)と念願だった柴又を兄に案内してもらいます。
寅さんの映画の雰囲気が漂う商店街
この店が第1作から第4作まで撮影に使用したとらやさん
店の中は今にでも渥美清や倍賞千恵子が出てきそうな雰囲気でした。
柴又帝釈天
こうして東京旅行を終えて
道民の翼AIRDO(エア・ドゥ)が待つ羽田空港に到着。
日暮里の谷中ぎんざ(昭和の雰囲気が漂う商店街)の
様子も書きたかったのですが、まだ9時ころで
商店街も開店していなかったので今回は省略します。
日暮里・谷中ぎんざ
谷中ぎんざから、この旅行ただ一度だけ富士山が見えましたが
スカイツリーはどこへいっても見えて
その高さと北海道並の寒さに驚いた東京旅行でした。
そして北見のわが家の日陰には、新しい雪がだいぶ残っていました。
日曜日の昼間は東京よりも気温は高かったのですが
朝晩は冷え込んで雪が降り積もったようです。
トヨタのうなぎ [黒い玉手箱]
今日から楽しみの9連休に入りました~
連休に入ったら冬タイヤを夏タイヤに替えて
冬物をクリーニングに出して、にころ山にも登って
プー太とたくさん散歩して♪・・・などなど考えていました。
しかし雪が降り積もってしまい
おまけにしばらく天気も悪そうなんですよ。
そんなわけで連休初日は特別な話題もなかったので
この前の昔話・トヨタ自動車の思い出の続きを少しお話することにします。
トヨタでの食事の思い出話
(画像はネットから借用)
白味噌の味噌汁ばかりで育った私が
愛知県に行ったら、寮の食事はもちろん街の食堂も
みんな赤い(濃い茶色)の味噌汁なんです。
初めの頃はなかなか好きになれなかったのですが
そのうちに慣れてきたら美味しく感じるようになってきました。
たまたま街の食堂で
白味噌の味噌汁を出してくれるところを見つけたので
白い味噌汁が恋しくなったときは、よくその食堂にも行ったものです。
工場や寮の食事はすごく安く1食30円とか70円くらいだったと思いますが
寮の食堂では食事の他に、うどんや生卵と牛乳が安い値段で置いてありました。
おかずの量も少ないので
毎日のように生卵を3個も食べていました。
工場での昼食のときは卵が売ってなかったのですが
もしも工場の食堂でも生卵が売っていたら
1日に4個も食べていたかもしれません。
そして牛乳は食事のたびに1本ずつ、毎日3本ずつ飲むことがほとんどでした。
食事は美味いものがあまりなかった記憶ですが
かけうどんは
北海道のうどんのように醤油たっぷりではないのに味が良くて
これが関西風のうどんなのかと喜んで食べていました。
こんなことで少し物足りない寮や工場の食事ではありましたが
みんなバリバリ仕事をしていたところを見ると
ちゃんと栄養は考えてくれていたのだと思います。
なんとウナギが出たんです。
この写真の半分くらいの量かなと思います。
あのときは何かの記念だったのかもしれませんが
工場の昼食だと4万食以上
寮の食事で寮生だけが食べたとしてもすごい数だったでしょう。
うなぎなんて食べたことがなくて、このときが初めてでしたが
そのウナギの美味かったことが忘れられなくて、その数年後に
北見に住むようになってからも何度かウナギを食べたのですが
トヨタで食べたウナギほど美味いウナギはありませんでした。