SSブログ

冷え込みも今が底です [日記雑感 17年]

22プー太1.JPG立春が過ぎました。

この冬最後の?冷え込み、今朝まで
5日間連続のー20度超えが続いています。

お父さんは

「11月から雪景色になってしまったので
この冬は長く感じるな~」
とうんざりしています。

12月から今朝までー20度越えは18回。

一番寒い日がー23.8度。

普通の吹雪は何度かあったのに
猛吹雪のドカ雪がないので、去年や
一昨年よりも積雪は少ない状態が続いています。

 

この冬はドカ雪がないので
道路の雪の壁もあまり大きくなりません。

CIMG1418.JPG
CIMG1420.JPG
CIMG1426.JPG

 

寒波が入って日本中が寒かったときに
お父さんがラジオの天気予報を聴いていました。

北から順番に予想最低気温を言ってます。

鹿児島・マイナス1度

これで日本中が冷凍庫の中かと思ったら

最後の沖縄の那覇はプラス14度

お父さんがびっくりしていました。

「鹿児島の隣の県なのに
なんで沖縄だけそんなに気温が高いんだ~33.gif

 

この日の北見はー23度だったので

沖縄とは37度の気温差。

「真夏は沖縄よりも暑くなることもあるのに
どうして冬だけこんなに違うんだべぇ
[exclamation&question]

 

 


nice!(34)  コメント(24) 
共通テーマ:blog

猿払中継所 [故郷の話]

久しぶりに昔話です。01.gif

故郷は小さな漁村。

小学低学年のころは
小さな子から大きな子まで
みんな一緒になって遊んでいました。

夏場の遊びは、缶蹴り・野球・魚釣りなどが主です。

 

61年前、私が小学1年のとき。 

2歳年上の良ちゃん
5~6歳年上でガキ大将のただおちゃん
ただおちゃんの小さな弟のケンちゃんはまだ4歳

大きい小さいは関係なく、み~んな
○○ちゃんと呼びあって仲良く遊んでいたものです。

 みんな仲良く魚釣り

img001 (2).jpg
 
 

右は仲良しだった2歳年上の良ちゃん。

左の丸坊主はてっちゃん、後のプー太の父[わーい(嬉しい顔)]

img001 - コピー.jpg
 
 
私の隣に座っている良ちゃんの妹
名前はたしかマチコちゃんだったかな。
当時の少女の髪型の定番キノコカット?なんですが
この写真ではちょっとわかりずらいですね。
 
img001 (3).jpg

当時はわが家の目の前に
電電公社(日本電信電話公社・現NTT)の
猿払中継所とその家族が住む官舎があったので
仲良くしていたのはおもにその子供達でした。
 
しかし電電公社は転勤が多いので
ときどき遊び仲間も入れ替わったりします。
そして私が中学生になるころには
中継所がなくなってしまったので、仲良く
遊んでいた仲間達は誰もいなくなってしまいました。

 
樺太と北海道を結んだ海底ケーブルと
電電公社・猿払中継所跡の記念碑
10 樺太間の電話線の跡 - コピー.JPG
 
 

この記念碑のすぐ目の前、この空地に
漁師をしていた父が自分で建てた家があり
ここで私が高校を卒業するまで住んでいました。


天気のいいいときには
わが家から樺太(サハリン)の島影が
見えましたが、父もその樺太から
逃げるようにして北海道に渡った1人でした。

09 浜猿払の家の跡 - コピー (2).JPG

 


私が生まれる15年前

1934年・12月

樺太(サハリン)と北海道を結ぶ
海底ケーブルが猿払のこの場所に完成
樺太・札幌・東京と通信網が広がりました。

その海底ケーブルを通しての
大事な中継の役割を果たしたのが
私の家の前にあった猿払中継所だったのです。

太平洋戦争時、樺太の北はソ連領南が日本領
戦時中としては比較的穏やかだったようですが
終戦を告げた玉音放送から数日後、日ソ不可侵条約を
一方的に破棄してソ連軍が日本領へ侵攻してきました。

 

広島に原爆を落とされた2週間後

1945年・8月20日

海の向こうの樺太・真岡郵便局に
勤務する9人の乙女たちの
最後の声を猿払中継所が最初に受信。

 

皆さん これが最後です
さようなら さようなら


ソ連軍の侵攻を前に9人の電話交換手の
若い女性が自決死してしまった悲しい出来ごとは
北のひめゆり」とも言われ小説や
氷雪の門」という映画にもなりました。

ソ連に南樺太を奪われ
樺太との通信もなくなり

国内では通信網の改良などのために
猿払中継所もその必要性がなくなります。

こうして猿払中継局は1964年9月
東京オリンピック開催の数日前
ちょうど30年の歴史に幕を閉じました。

私が中学3年生のときでした。


子供の頃

海がすごい大荒れの後だけ
砂浜が削られて錆びた太いワイヤーが
姿を現すのですが、そんな悲しい歴史があった
海底テーブルだったなんて全く知らないことでした。

 


 
[exclamation]

自分の記憶とネットのチカラを借りて
記事にしましたが、3年ほど前にも似たような
記事を書いたことがあったので重複する部分があります。

なお、稚内市の稚内公園には
1963年に「九人の乙女の像」が健てられ
その当時の関係資料なども展示されていますが
詳しいことはこちら稚内市の観光情報でご覧ください。
[バッド(下向き矢印)]
http://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/kanko/gaiyo_rekishi/9ninotome.html

 


nice!(39)  コメント(24) 
共通テーマ:blog

風邪をひきました [日記雑感 17年]

最近は冬に一度必ず風邪をひいていますが
今年も今月のはじめに風邪をひきました。

熱は2~3日で下がったのですが
咳がなかなか治らなくて

誰かと話そうと思ったらゴホゴホ
寝ようと思って布団に入ったらゴホゴホ。

風邪で病院に行ったのは30代くらいが最後かと思います。

だんだん年を取って来たら極端な高熱も出ないし
病院嫌いの私は風邪ぐらいで病院なんか行けるかと
いつものように市販の風邪薬を飲んでいましたが

女房には「アンタ肺がんでないの」って言われるし
2週間も咳が止まらなくて心配になってきました。

ついに我慢が出来なくて
なんかいいクスリがないものかと
ドラッグストアに行きましたが
液体の咳止めを見つけたので買ってみました。

CIMG1432.JPG

 
たいした期待もしてなかったのですが
このクスリを飲んで寝た日は、久しぶりに
ほとんど咳も出ないで気持ち良く眠れたんです。

まだ若干咳は出ますが、夜中はまったく咳が
出ることもなくぐっすり眠れるようになりました。

こんないいクスリがあったなんて

我慢強いのも良し悪しですね~[わーい(嬉しい顔)]

 

 

 


nice!(37)  コメント(24) 
共通テーマ:blog

2月末 [弁当配達日記]

2月最後の日です。

比較的暖かい日が続きましたが
昨日は1週間ぶりにー20度を超えてー21度
今朝もー19度と、この冬最後の冷え込み。

月末の1週間は集金だなんだと忙しいのに
2月は普段よりも2~3日も稼働日が少ないので
余計に忙しいだろうと早めに対応をしました。

いつも「財布がないハンコもない」と
私を困らせてくれる一人暮らしの80代の女性Tさん。

 food_obentou_makunouchi.png

2月23日

いつもよりも早めに
請求書と書類を持ってお邪魔しました。

予想どうり「サイフが見えない」と集金には
なりませんでしたが、印鑑だけはすぐに見つかって
書類の用件だけは終わらせることが出来ました。


2月24日

せっかく財布が見つかったのに今度は
お金が足りないので明日は用意しておくから」と言われ
この日も集金になりませんでしたがこれは想定内です。


2月25日

この日も集金の出来る
予想確率は30%以下ですが
弁当を持ってお邪魔しました。

ところがびっくり[exclamation×2]

ちゃ~んとお金を用意してくれていたんです。


いつもならこれに、病院に行った
ディサービスに行ったと留守のことが多いので
用件が終わるまで最低でも5~6回はかかって
ほとんど次の月の初めになってしまうのに

「こんなに早くTさんの用事が終わるなんて~[わーい(嬉しい顔)]

 


難問?早期解決・ホッとひと息帰り道

日の出日の入りが早い北見地方ですが
夕方5時でもこんなに明るくなりました。

 

IMG_20170119_161924 (2).jpg



11月からの万年雪も汚れて真っ黒け
少しだけ春が見えてきたような気がします。

 

 コメント欄を閉じています\(_ _*)

 

 


nice!(38) 
共通テーマ:blog