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お父さんの黒い玉手箱 [黒い玉手箱]

プー太2.JPGお父さんが夕べ黒い箱を出してきました。               

ボクは何が入ってるのかなと覗いてみたら、お父さんが
これは父さんの若い頃の思い出がいっぱい入った黒い玉手」と言いました。

5.jpg

万博の入場券、映画の入場券それから古いパンフレットや                           有料道路の通行券などいろんなものが入っていました。

2.jpg

1.jpg

「おーい プー太それ以上はいま言わないでくれ、そのうちに
父さんが
ブログに書いてみなさんに読んでもらおうと思ってるのだから」

と止められてしまいました。

お父さんは高校卒業してからの5年間
愛知県に住んでいた頃の思い出を書くみたいです。

img001 - コピー.jpgお父さんはドライブが

好きなのであちこち自分の

クルマでドライブや旅行を

したそうです。

そんなことを思い出しながら

楽しかった昔話を記事に

する予定ですので

みなさんお楽しみに[わーい(嬉しい顔)]

地図のピンク色に塗った県は、お父さんが昔自分のクルマで走ったところです。


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公務員断念の旅 [黒い玉手箱]

先日のブログに書きましたが、黒い箱の中に入ってる思い出の記録を見て
思いだす範囲内で古い思い出を書いてみたいと思います。
しばらくの間
黒い玉手箱シリーズ」として時々書く予定です

高校を卒業して愛知の方に行ってからの5年間の思い出

最初に、一枚の国鉄の急行券からいろいろ思いだしてみます。

img004.jpg

1968年(昭和43年)8月19日

この年の4月に最北の村から愛知の方に行ったばかりなのですが                       その4ヶ月後に愛知から北海道の旭川まで行くことになりました。

高校生の時に国家公務員の試験に受かってたのですが、その空きが
出来たようで「旭川工業高等専門学校」事務職の面接の連絡があったのです。

てっきり採用してもらえるもんだと思って面接にいったら
1人の採用枠に、私の他に2人面接にきてまして結局不採用でした。

「北大の事務職員」の面接に続いて
2度目の不採用となったので、国家公務員になることを諦め
腰掛のつもりで行った愛知県に5年と3カ月間住むことになりました。

この年世の中ではどんなことがあったのだろうかと                                  ネットで調べてみたらいろいろありました。

三億円強奪事件

川端康成がノーベル文学賞受賞

〒郵便番号制スタート

岐阜県で観光バス2台飛騨川に転落して死者・不明104人

札幌医大の和田教授が日本初の心臓移植をする。

その他にもいろいろ事件がありましたが
三億円事件には世の中みんなびっくりして、その話題で賑やかなものでした。

そのときの思い出が一つだけありました。

国鉄の列車で愛知県豊橋駅から東京へ行き
そして東京から青森へ向かう列車の中で、向かいの席に
私より少し年上のような若い外国人の男性が座っていました。

私は田舎者で、あまり外国人を見たことがないもので興味津津
英語なんて話せないのですが
単語を並べたらなんとかなるだろうと思って話しかけてみました。

「キャンユー スピーク ジャパニーズ[exclamation&question]

すると外人さんも待ってましたとばかり目を輝かして

「キャンユー スピーク イングリッシユ[exclamation&question] 

私が「オー ノー」と、すまなさそうな顔をすると

外人さんがポケットから会話用の辞書を出しました。

その辞書を通じていろいろ話が出来たのですが                                                         その男性はアメリカ人かと思ったらドイツ人でした。                                         

福島県の原ノ町の友人を訪ねるということで
途中でお別れしましたが、旭川へ行く途中の楽しい思い出です。

もう44年前のことはほとんど忘れてしまったので
帰りはどうやって旭川から愛知へ戻ったのか何も記憶がありません。

ぼんやり覚えてることは
私が旭川まで行ったのに田舎に帰る余裕がなかったので
田舎の父親が旭川まで出てきて、旅館で一緒に一晩泊まったことくらいです。

というわけでこの急行券、私には公務員を諦めるという嫌な思い出で
本当は
破り捨ててもよかったものなのに、大切に保管してありました。

さて次回の思い出話は愛知に戻ってから1カ月後の9月                             

自転車で国道1号線を走り、愛知、静岡、箱根、熱海                       そして伊豆大島に行ったことを、思い出して書いてみたいと思います。 

                                    


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走れ東海道・静岡編 [黒い玉手箱]

昔話 自転車旅行 第1話  1968年(昭和43年9月)

前回
国鉄の列車で愛知県から旭川まで
往復した話をしましたが、今回はその1カ月後
愛知県から箱根峠を通って伊豆まで自転車で
走ったことを思い出しながらチラッと書いてみます。

5.jpg
 
上の写真の黒い箱(黒い玉手箱?ガラクタ入れ?)の中に
その時の思い出になった古い写真が2枚入っていました。
 

このサイクリングは
夏休みを利用して行ったのかと思っていましたが
写真の裏を見ると、昭和43年9月と書いてありましたので
9月にまとまった連休があったと思われます。

連休に入る直前に、友人が退屈なので自転車で
どこかへ行こうと誘いがあったので即決まったこと。
まったく無計画、走れるところまで
走ろうというサイクリングだったのです。

それでは昔話を始めます

1968年(昭和43年9月) 私が18歳か19歳のとき

出発して間もなく、反対側から走ってくる
自転車に乗ってる人がこちらに手を振るので私と友人が
誰なんだろうと、きょとんとして顔を見合わせました。

次に出会った自転車の人もこちらに向かって手を振ります。

ここでようやく二人とも
ああサイクリング同志の挨拶なんだと気がついたのです。
そんなマナーも知らないで、最初の人には失礼してしまいました[ふらふら] 

浜名湖も過ぎたあたりから
私は疲れてきて少しずつ友人が先に先にと走るようになります。

友人は高校時代からマラソンの選手だったようで
その後も毎日のように走りこんでいましたが、私は短距離は得意なのに
マラソンは苦手でいつもビリのほう、こういうときにその差が出てきます。

やがて浜松あたりから足もつって大変でしたが
とにかく泣き言を言ってられないので、遅れながらも走りました。

自転車というとのんびり走るイメージですが
休憩もろくにとらないでとにかくビュンビュン走るだけです。

自転車にスピードメーターが付いていたのですが
下り坂になるとすごいスピードが出て、時速60キロくらいになると
怖くなるので、ブレーキをかけながら走ったのを思い出します。

何も考えてるヒマのないハードなサイクリングでしたが
そのときに通過した掛川市、島田市、藤枝市など一番辛かった
コースにあった地名は今も忘れたことがありません。
あちこちにお茶の畑があったので、お茶の香りがした覚えがあります。

 

88.jpg

それがお茶畑なのか
お茶の工場だったのかも覚えてませんが
とにかく気持ちがほっと一息できるような香りでした。

そんなひどいサイクリングも、夕方になって
ようやく一泊目のテントを張って無事に終わります。


そのときのキャンプ地は静岡県清水市の三保の松原でした。

 

1968(昭和43)年9月・三保の松原で

img002 - コピー.jpg

地図ソフトで距離を調べてみると
この一日で180キロ以上走ってるので
北海道でいうと、北見から旭川を超えて
深川あたりまで走った距離になります。

(参考ですが、毎年行われるオホーツクサイクリングは
雄武町から斜里町まで1泊2日で212キロを走行します。)

名古屋の近く岡崎市から国道1号線に入り
静岡市を過ぎてから、清水市で国道1号線を出て
一泊目の三保の松原に向かったようです。

512px-LineMap_TokaidoS_jp.png

国道1号線(旧東海道)は東京と大阪を結ぶ日本の大動脈。

おまけに炎天下の強行サイクリングで疲れきってしまって
ふらふらしながらテントを張った記憶があるのですが
あの有名な三保の松原や富士山を見た記憶もなにも残っていません。

そんな風景なんか楽しむ余裕のない一日目でした。

 2日目

一晩寝ると体力も足も回復、清水市内に戻ってまた国道1号線に入り
駿河湾を富士市、沼津市と走り、そしていよいよ三島市に到着。

三島市に着いてまもなく緩く長い坂道を見たときに
今までになかった緊張感を感じたので忘れられないところです。

いよいよ箱根や熱海が近くなった嬉しさ
そして1号線最大の難所、箱根峠が待っています。

箱根峠は私のブログタイトルの
仁頃山(829m)より少し高い標高846mもあるのです。

サイクリング旅行の1回目終わり

 


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走れ東海道・箱根編 [黒い玉手箱]

昔話 自転車旅行 第2話   1968年(昭和43年)9月 

(  注:今日の画像は全部ネットから借用したものです )

第1話は静岡県三島市に着いたところで話が終わりましたが
今日はその続きを、思い出すところだけ書いてみようと思います。

いろいろなことを思いだして考えてみたら
仕事が5連休だったので、
4泊5日の日程内で伊豆大島を目指して
行ける所まで行こうという
考えだったのでないかと思います。

1日目は静岡県内を頑張って走ったので、2日目は伊豆半島の付け根にある
沼津市や三島市を過ぎて、いよいよ箱根峠がすぐそこまでというところです。

 2日目の走行ルート

三保の松原⇒三島市⇒箱根峠⇒熱海市⇒[船]伊豆大島                 

                                                                                                 1日目は170キロ以上走り、2日目は三保の松原から三島市までまだ
60キロ弱しか走ってないのでこの日はまだまだ体は元気いっぱい。

友人と二人で箱根峠を目指して走り出しましたが
やはり箱根峠に向かう道は上り坂の連続で途中から
自転車に乗っての走行は無理になったので押して歩きました。

箱根峠を越えるということは予想通り
大変なことだと思いながら自転車を押して歩いてるそのときに

思わぬ味方が現れました

なんと追い抜いて行く車[車(セダン)]の助手席から次から次と                                   

頑張れ~!  頑張って~!」と声がかかるのです。

対向車線を走ってくるトラックの高い運転席からも
窓から顔を出して激励の大きな声が聞こえます。

もうこんなに応援されて元気が出ない訳はありません                                      

思ったよりも早く箱根峠に着いてしまったようです。

着いた~

2年前、高校2年生の修学旅行で訪れた箱根に
今度は自転車で来ることになりました。

1.jpg

このあたりからまた記憶がないのですが
いま改めて地図を見てみると、
熱海市まで最短距離(約20キロ程)を
走ったと思いますので、
たぶん十国峠を走り熱海市に行ったのでしょう。

 自転車旅行の2日目、無事に箱根峠を越えて
熱海市に向かう途中ですが、続きはまた次回にしたいと思います                                                                        


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走れ東海道・伊豆大島編 [黒い玉手箱]

昔話 自転車旅行 第3話 1968年(昭和43年9月)

愛知県を出発して2日目
箱根を出発して、最終目的地の伊豆大島に行った思い出を書きます。

前日の早朝に愛知県を出発して2日間、約260キロから270キロ程走り
ついに熱海市に到着、それからすぐ大島行きの船に乗ります。

思い出といっても箱根から熱海までの様子はまったく思いだせなくて
覚えているのは熱海市から伊豆大島に向かう船の甲板
友人と2人で大島が見えたときの風景やなんとも言えない心境などです。

伊豆大島(ネットから借用) 

1.jpg

あのときは熱海から少し曇っていて暗い感じの大島に見えましたが                     船から島を見てるときの雰囲気としてはこの写真のようでした。

そしてついに目的地の伊豆大島に上陸
海岸の近くで2日目のテントを張ります。

こうやって思いだしてみると
たった2日間で炎天下の国道1号線をよく走ったものでした。

 
記憶がほとんどないなかでも、すごく嬉しかったことや嫌なことは
忘れないもので、このキャンプのとき大きな石に足を
思い切りぶつけてしまい、痛いと思って親指を見たら
爪がぐらぐらしてほとんど全部はがれそうな状態になっていました。

抜こうと思えば抜けたのでしょうが、気持ちが悪いので
そのまま布か何かでしっかり固定してそのまま旅を続けます。

しばらくしてから爪がそっくり剥がれて、その後何カ月も
しないうちに新しい爪が成長してすっかり元通りになりました。

3日目の朝大島元町港で熱海市に戻る船を待つ私。

05.jpg

 

目的地の大島も見て、船でまた熱海市に戻りますが
ただ走るだけの旅行でしたので箱根、熱海、大島などほとんど素通り
今思うとせっかく行ったのにと残念な気持ちもします。

みなさんにもっと詳しく伝えたいのですが
ほんの少しの記憶と、古い写真が2枚残ってるだけなのです。

それでは次回(自転車旅行の最終回)
帰り道の様子もぜひ読んで下さい。
             


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走れ東海道・最終回 [黒い玉手箱]

昔話 自転車旅行 第4話 1968年9月(昭和43年)

この思い出話                                           前回は目的地の伊豆大島まで行ったところまで書きましたが                      今回は最後の様子を覚えてることだけを書いてみます。

(今日の写真は全部ネットから借りました)

愛知県を出てから3日目

伊豆大島から船で熱海に戻り
また同じルート(たぶん十国峠)を自転車で箱根に向かいました。
 

この日は船が出る時間も遅かったせいか
箱根に着いたら
もう午後のいい時間になっていたようです。

2日続きのテント宿泊が飽きたのか、それとも時間に余裕が出来たのか
この日は早めに宿を探して、箱根をし見物してのんびりすることに。

たしか国民宿舎のような安い旅館だったと思います。

友人と二人、大広間のようなところに寝かされた記憶がありますが
とにかく自転車での貧乏旅行では唯一のぜいたくで、明るいうちに
ゆったり温泉に浸かって、汗臭い体をきれいさっぱりしたことを思い出します。

4日目

この日はもうただ帰るだけ、と言っても愛知県のゴールまで                240キロ前後あるのでもう一泊の予定だったと思います。

大.png

温泉に入ってのんびりしたのと体も自転車に慣れてきたようで
この日は快調に国道1号線を走りますが、箱根を出てから夕食のために
ドライブインに
入るまでの間のことは何も覚えていません。

(なぜドライブインのことだけを覚えているかは後で書きます)

そのときの思い出がないものかと調べたら
1枚の入場券(静岡市 登呂遺跡)を見つけたので
もしかしたら
その時の?と思ったのですが、この自転車旅行の
2年後(昭和45年)にクルマで行ったときのもののようです。
                                 

登呂遺跡なんてだれと行ったのかも思いださないのですが
このときの入場料が20円となっています。

下の入場券は私の保管してあった42年前のものです

小.jpg

ここで(静岡県のどこかの街)嫌なことをひとつ思いだしました。
友人が信号待ちで横に並んで停車中のタクシーの横にぶつけてしまい
少しのキズでしたが後でいくらか払ったのです。

その後は静岡県内を快調に走りましたが
ゴールまでは
まだまだ240キロほどの距離があります。

途中で4泊目のテントを張るのが面倒になったのか
早く帰りたくなったのか覚えてないのですが
このまま夜通し走って、翌日の朝までにゴールしようと
したようです。

浜名湖の近くで 27542143_v1340895162.jpg                      

夕食のためにドライブインに入りました。

旅行中の食事はどうしていたのか

覚えてないのですが                            

このドライブインで食事したことだけは忘れません。

このドライブインでラッキーなことが待っていたのです

このとき私はもちろんですが、タフな友人もくたくたに疲れていました。
夕食時間のドライブインの中は大型トラックのドライバーなどで
混んでいたので、他の人達がいる同じテーブルに着きます。

そのとき一緒のテーブルの運転手さんと
いろいろ話をしながら
ご飯を食べてたのですが、私たちの疲れた様子が
可哀想だと思ったのか、
1号線を大阪まで走るしトラックは空だからと
途中まで
私達と自転車を乗せてもらうことになったのです。

1.jpgこうして夕闇せまる浜名湖を

大型トラックの助手席から見ながら

旅の最後は親切な運転手さんの

おかげで大変楽なドライブに

なってしまったのです。

そして岡崎市でこの運転手さんとお別れして思い出深い国道1号線を出ます。                                    

岡崎市まで来ればあと15キロほどでゴールですが                          

国道1号線を出たらすごく寂しくなった感じがしました。                         

それだけ日本の大動脈国道1号線は賑やかだったのです。

このときのことはぼんやり覚えていて夜の10時か11時ころで
なかったかと思いますが、
岡崎市内を走りながら今日中に帰れる」という
安堵の気持ちと、
まだ住みついて5カ月なのに4日も離れるとその街が
もう
恋しくなって、ああやっと帰れるんだという気持ちで走っていました。

こうして親切なトラックの運転手さんの
応援(60キロほどの距離)もあって、この日箱根から240キロ程の
距離を走り抜いて、
高校を卒業してから5年と3カ月お世話になった街

愛知県豊田市に到着 

たった一度だけの貴重な自転車の旅が終わりました。


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免許証の思い出 第1話 [黒い玉手箱]

タイトル:プー太の父の怒り[exclamation×2]                                          

前回記事にしました自転車旅行のすぐあと1968年(昭和43年秋)
自転車旅行のこととは反対に覚えてることが多いので
今回はクルマの免許を取った時の思い出話を書いてみます。

自転車旅行のすぐあと、たしか9月だったと思います。

友人の中にオートバイ好きなのがいて
時々うしろに乗せて
もらってましたが、そのうちに自分も
オートバイを運転して
みたくなって、自動車学校に行くことになりました。

通い始めて1~2日にそのオートバイ好きが

なにも自動二輪の免許なんて取らなくても、そのうちにみんな                       

クルマを持つようになったらお前もクルマが欲しくなるんだから                    

そんなヒマがあるならクルマの免許を取ったほうがいいだろう

オートバイ好きの予想外の言葉に、素直?な私はすぐに方針転換
自動二輪はすぐに諦めてクルマの免許を取ることにしました。                      

(もちろん払ったお金何万かは戻ってこなかったと思います)

こうしてクルマの免許を取るために
残暑きびしい中ま、た同じ自動車学校に通います。

さていよいよ教習が始まると
私の担当の先生は
いつも文句ばかり言ってました。

まあ自動車学校の先生は
こんなもんだろうと思っていましたが、
だんだんひどくなってきます。
いつも文句ばかり言われていい加減腹が立ってるところに                        

何をトロトロしてるんだと」というようなことを言われて

今までハイハイと我慢してきた温厚な?私もついに限界怒り爆発[exclamation]

「慎重に走ってるのにトロトロとはなんだ~[ちっ(怒った顔)]とばかり

グイッと右足に力をいっぱい入れてアクセルを踏んだのです。

自動車学校の中の練習コースですが急にスピードが出ました。                                  助手席で威張ってる先生がビックリして急ブレーキを踏んで                             

クルマを止めてから私に「何をするんだ~」と怒鳴りました。

私は心の中で
普通に走ってればトロトロするなと文句タラタラ

それじゃあ先生のご希望通りキビキビ走ってやろうかと思って

ちょっとスピードを出せばビックリするし、どうすりゃいいんだ

と、ひらき直っています。

この話の続きはまた次回にしますが、そんなことして

「プー太の父さん、仕返しされて免許なんて取れないんでないの」

なんて思うでしょうね。

 結末は次回のお楽しみに!また続きもぜひ読んでください


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免許証の思い出 第2話 [黒い玉手箱]

途中で川口の話などが入ったので
遅れてしまいましたが,今日は前回の続きを書きます。

文句ばかり言ってる自動車学校の先生に私はついに怒りが爆発[ちっ(怒った顔)]                           右足に力を込めてアクセルをぐぃっと踏んだら急にスピードが出ました。
先生はびっくりして急ブレーキを踏んで
クルマを止めて「何をするんだー」と怒鳴ったのです。

この話はこれからが面白くなりそうなのですが、しかし意外にもその先生
それからは
まったく文句も言わないで静かになってしまいました。

文句さえ言われなければこっちも運転しやすいので
その後は運転も順調になって、そして路上教習も無事に終えて最後の日。

私は「お世話になりました」と型通りの挨拶を
先生は試験は大丈夫だと思うけど一回くらい補習受けておけよ

そんなもの受けなくてもと思いましたが,先生との交際費だと思って
一度だけ補習を受けてから名古屋で試験を受けました。

こうして名古屋で取った愛知県公安委員会と書いてある
思い出の免許証を、北海道に帰ってからも大事にしてたのですが
ある日警察の検問があったときに

その警官が「免許証の更新日がとっくに過ぎてますよー

そんなことで再交付してもらった免許証から、愛知県の文字が
消えて
北見になってしまいましたが、あのときは本当にがっかりしました。

右の写真が現在の免許証です22.jpg

顔写真の下の○○○のところに

愛知知県と書いてあったのですが

再交付のとき北見になりました。

いま思いだしてみると,なんで急に先生が静かになったのか

[1]自分の指導が間違ってたと気がついて反省した

[2]またやられたら困るから

どう考えてもこのどちらかしかないのです。

ついでに余談になります

仕事には必要はなかったのですが,北見に来てから大型免許を取ったのです。

その時の先生はすごくおおらかな人で路上教習のとき
ちょっと横向いて先生の顔を見たら,気持ち良さそうに居眠りをしていました。

                                       


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三重県と和歌山県の思い出 [黒い玉手箱]

黒い玉手箱 (愛知県在住の昭和43年4月~昭和48年7月までの話)

この箱に入っている古い資料や写真をもとに、若いころの思い出を語ります

5.jpg

黒い玉手箱シリーズで、愛知県に住みついた年に自転車で伊豆大島旅行
そして車の免許を取得したところまでお話しました。

そのあと中古のクルマを買ってあちこち走り回りましたが、今回は何度も行った
伊勢湾岸沿いの三重県、一度だけの和歌山県のことを思い出してみます。

当時愛知県から三重県に行くのに8.jpg

よく走った道路が名四(めいし)道路

この通行券は昭和47年のものですが

その2~3年後に無料になったようです。

愛知県から三重県に入ると桑名市です。10.jpg

桑名市長嶋町には長嶋温泉や国内では

ディズニーランドの次に広い敷地面積の

大型テーマパーク

ナガシマスパーランドがあります。

一度しか行ったことがなかったのですが入場券を保管していました。

 

桑名市の次が四日市市

日本4大公害のなかで、唯一大気汚染で多くの人達が苦しんだ街

四日市を初めて通ったとき国道から見たものは
高い煙突や無数の太いパイプや細いパイプのある大きな工場
いま思い出してみると毒ガス製造でもしてるような雰囲気の工場でした
茶色に錆ついたような民家の屋根や建物
街全体が茶色になってるような印象を受けたのです。

車の中にいても息苦しい気持ちになったのですが
公害の街としての四日市が、強く頭に残っていたので気のせいかもしれません。

最近の四日市の工場群(ネットから借用)

2DSC_1032.jpg

初めてこの街を通ったのは、私が19歳だった1969年(昭和44年)1月ですが
このときはまだ原告の喘息患者と被告のコンビナート企業6社の裁判中で
原告側勝訴の判決が出たのが1972年でした。

私には錆ついてたように見えた街に、多くの人達が喘息で苦しんだり
子供達が亡くなったり、また自殺した患者もいたのです。
本当に大変な歴史のあった街なので
あのとき通った異様な街の様子が忘れられません。

もしも夜に通っていたら
不夜城のように灯りがいっぱいの工場の巨大煙突から
大量の毒ガスが四日市の街に吐き出される気味悪い光景だっと思います。

なお三重県の県庁は津市ですが
工業や経済そして人口と四日市が三重県の中心都市のようです。

ほんの少しの通過時間なのに思い出に残った四日市市から南下

鈴鹿市、津市、松坂市

四日市市は忘れられない街ですが
この3市の思い出はまったくないのです。

鈴鹿市と言えば鈴鹿サーキットが有名ですが当時の若者には珍しく?
私はクルマのレースなどモータースポーツには興味がなかったのです。
津市は「つ」という一文字の地名で三重県の県庁所在地という程度。

さらに南下すると伊勢市

小学生のとき日本中が切手ブームになり1 (2).jpg

私もいろんな切手を収集していましたが

オホーツク海の砂浜しか知らなかった私には

すごく不思議な風景に見えて

いつか見てみたいと思っていたところ。

そこは伊勢市二見町二見浦(ふたみがうら)です

夫婦岩 1969年1月:撮影プー太の父)

2.jpg

上の写真はたまたま偶然に切手と同じような所から写していました。

3 (2).jpg

この日は曇っていて寒い日でしたが、この風景を見たときは感無量でした。

それから伊勢志摩スカイライン伊勢神宮などを見物

 

伊勢志摩スカイラインの景色は
それまで見たことがない絶景で、いつか自分が結婚したら
新婚旅行は絶対ここにするんだと思ったほどの素晴らしい景色でした。
でも現実にはその7年後新婚旅行は宮崎に行ってしまいましたが。

 

4.jpg

この風景が気に入ってしまって

その後2度か3度行ってるのですが

この領収書はその3年後

昭和47年3月となっています。

その当時500円だった通行料金は

現在は1,220円になってるようです

でもこの絶景を見たならば

通行料金が高いなんて文句は言えません。

伊勢神宮参拝もしましたが
1月だったのですごい人で大渋滞。

参拝するのに並んで少しずつ前に
歩いてるのですが、頭の上からお金が降ってきます。
後ろから賽銭箱をめがけてお金を投げ入れてるのでしょうけど
賽銭箱に届かないで、途中の人並の中にお金が落ちてしまうのです。

そして和歌山県にも行きました。

何度も行った三重県のことは思い出すのですが
和歌山県には一度しか行ったことがなく、覚えているのは
那智の滝、クジラの街太地町、本州最南端の潮岬などですが
写真も資料もなく記憶も薄れ、記事に書くことができませんでした。

潮岬(ネットから借用)

800px-KureZaki.jpg

ただ太地町を通った時には
クジラのモニュメントを見て初めて捕鯨の町と知り、潮岬に行ったときには
本州最南端の碑を見たので、そこが最南端と知ったような記憶があります。

黒い玉手箱、今回は三重と和歌山の思い出でした

 

 

 

 


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伊吹山 [黒い玉手箱]

 今回の黒い玉手箱シリーズは40年前の伊吹山の思い出です

いつか本州の山に登ってみたい
どうせなら日本百名山にと思っていましたが
思いだして考えてみると、40年ほど前にたった一度だけ登っていたのです。

この事実を知ったのは、つい最近のことですがびっくりしましたね~

ただし9号目までクルマで登ったので、登山とは言えないのですけど。

それは滋賀県の最高峰伊吹山(標高1377m:日本百名山のひとつ)
伊吹山ドライブウェイの入口は岐阜県関ケ原町ですが頂上は滋賀県です。

img001 (3).jpg

この伊吹山ドライブウェイを走ったことは覚えてるのですが
それ以上のことは特別考えていませんでした。

ネットで調べたら(9号目の頂上駐車場に車を停めて
そこから歩いて頂上へ、頂上は霊場の雰囲気
)となっています。

そのときのことを思い出してみましたが
私も伊吹山ドライブウェイを走って終点の頂上駐車場に
クルマを停めて、たしかに頂上まで歩いて行ったのです。

岩があちこちにゴロゴロと転がっていた頂上には
神様を祀っていて霊場という雰囲気だった記憶がありました。

40年前の思い出の通行券

img001.jpg

通行券に日付が入ってなくて残念です。
このときはたぶん昭和46年かなと思いますが、当時800円だった
通行料金が現在は3,000円というバカ高い料金になってるようです。

ちょっと懐かしくなったので、ネットから伊吹山の画像を借りてみましたが

伊吹山のお花畑4.jpg

あのとき天気が良ければ

景色もよかったのでしょうけど

曇っていて頂上は寒く

景色はあまり見えなかったような気がします。

 

ここが9号目の駐車場

私もここにクルマを停めて頂上まで歩いたのです

2-2.png

頂上7.JPG

霊場という雰囲気が

記憶にあるのですがたぶん

この神様を見てそう思ったのか。

 
一度は行きたいと思っていた本州の百名山に
40年前に行ってたなんて、うれしい発見でした。
若い時あちこち走り回っていて本当に良かったと思います。
いま行こうと思っても、そんな遠くまで簡単に行けないですからね。
 
話のついでに、この近辺の思い出のものがまだありましたので
 
 
img001 (4).jpg
 
関ヶ原の古戦場なども見てるのですが、ウォーランドにも行ってたようです。
ウォーランドとは、関ヶ原の戦いなどの博物館みたいなものです。
img001 (2).jpg琵琶湖大橋の通行券ですが、これは
昭和46年8月29日と
はっきり分かる
日付スタンプが
押してありました。

どこの有料道路も通行料金が
高くなってるのになぜか
琵琶湖大橋の通行料金は
40年後の今も同じ200円です。
 

あと、この近くでは、
彦根市の彦根城も古いままで
とても良かった記憶がありますが
彦根城の入場券は手元に残っていませんでした。
 
 
今回は岐阜県と滋賀県にまたがる伊吹山の思い出話でした。

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映画の思い出 [黒い玉手箱]

今日は「黒い玉手箱」から5.jpg

思い出の映画の半券を

出してみました。

私が高校を卒業して

愛知県に行ったのは

1968年(昭和43年)。

 

時々名古屋市に遊びに行き、映画館の前を通ると
大音量で「卒業」のテーマ曲サイモン&ガーファンクルの
サウンドオブサイレンスが聞こえてきます。

ラジオで聞いててもいい曲だと思っていたのですが
あの物悲しい曲を映画館の大きなポスターを見ながら聞くと
ジーンと胸にきてしまい
北海道に帰りたいとホームシックになったのを思い出します。

そんな私もそれから1~2年後、映画や音楽の大好きな友人が
出来た影響で、時々映画館や音楽会に行くようになりました。

その中でも一番思い出に残っている
映画「ひまわり」の半券を大切に保管してありました。

ちょっと記憶を頼りに簡単にストーリーを

妻(ソフィアローレン)が、戦争が終わっても帰らない夫を捜し求めて
ソ連のあちこちをまわり、ようやく夫に会えたと思ったら、極寒の原野で
倒れていた夫を助けてくれた、ソ連人の女性と結婚して子供もいたのです。

img001 (2).jpg

夫に会えたところで映画が終れば
「水戸黄門さま」のドラマのように(めでたしめでたし)なのですが
この映画はここからが本番、3人の愛と苦悩の長い物語が始まり
最後まで悲しいまま映画が終わってしまいました。

 

007シリーズの「ダイアモンドは永遠に」この映画は、これから始まる
映画を待ちながら、ワクワクしてスクリーンの目の前で聴いた
シャーリー・バッシーの歌声が素晴らしかったので忘れられません。

映画館の音響装置もすごく良かったのでしょう。

そして映画館のハシゴもしました。

ある愛の詩」と「狼の挽歌

だったと思いますが、「狼の挽歌」以来すっかり
チャールズ・ブロンソンのファンになってしまいました。

無口でカッコ良くて、日本の俳優で言えば高倉健のような感じです。

ドライブやパチンコ、ときどき飲み屋通い、ミュージックは
ローリングストーンズなど中心の生活から「ポールモーリア」などの
コンサートそして映画館に行ったりと、音楽と映画に目覚めたころでした。


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昔話1970年の頃 [黒い玉手箱]

 黒い玉手箱(愛知県在住時代の古~い思い出話)

私が映画をよく観るようになった頃1.jpg

1970年は万博がありました。

戦後の最大イベントは

東京オリンピックでしたが

高度成長時代の真っただ中の

大きなイベントでは

札幌オリンピックと万博を思い出します。

札幌オリンピック(1972年)はちょうど

職場の昼休みのときにテレビで見ていたのですが
スキージャンプの金銀銅メダルの独占には驚いて興奮したものです。


その2年前1970年の万博は
私もクルマで名神高速道路を走って見物してきましたが

そのときは、日本中の人達が万博会場に
大移動しているんでないかと思うほど賑やかな話題でした。

当時の入場券とパンフレット(上の写真)です

2.jpg

なにしろ日本最北端の村から
私の亡き父親もツアーの団体で万博見物に行ったくらいです。

当時まだ貧乏していて、津軽海峡など一度も渡ったことのない
父親が日本最北の村から、私の住んでいた愛知県を通り越して
大阪まで行くというのですから私も驚きました。

 

万博会場
人気のパビリオンはすごい人の列で、私はとてもそんな行列に並んでまで
見たいものもなかったので、人気のない国のパビリオンばかり見て回りました。
それでも朝から夜会場が閉まるまで、1日楽しく万博見物をしてきたものです。

この年1970年にビートルズが事実上の解散。

日本国内では三島由紀夫割腹自決という信じられない出来事もありました

ビートルズは解散するのですが
この頃は次々といろんな新しいグループが出てき
日本の音楽ファンを楽しませてくれるようになった頃と思います。

なかでもカーペンターズは忘れられません。

1971年から1972年ころだったと思いますが、次から次とヒット曲を
出して、毎日何回もラジオからカーペンターズの曲が流れてきます。

いい曲ばかりで大好きなのですが
毎日何回もラジオから流れてくるので私もいい加減飽きてしまって
カーペンターズなんてもう聴くのイヤだ[ふらふら]となってしまったのでした。

そのくらい、よくラジオから流れてきたものです。

もしも生きてるうちにタイムマシーンなんか出来たら
一番先に行ってみたいと思うくらい、1970年は思い出いっぱいの年でした。


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文通友達が住んでいた街 [黒い玉手箱]

京都、天橋立、福井県の三方五湖レインボーライン、今話題の敦賀原発にも
行ってきましたが、資料も記事にするような記憶もないので省略して
鳥取砂丘に行ったときに通った、福知山市の思い出を少しお話します。
 


小学4年か5年のときに
福知山市に住む1歳年上の男子と文通をしていました。

京都の山奥の方から北海道の先端の方までなので
手紙を出してから配達になるまで、だいぶ日数がかかったと思います。


私が返事を出してから相手の返事が
私のところに着くまで、今か今かと待っていたものです。

文通が始まってから何カ月かすると
文通相手から京都の珍しいお菓子を送ってもらったり
こちらからも北海道の名物を送ったりするようになりました。

その人のお姉さんまでも、手紙を書いてくれて同封されていたり
家族ぐるみの文通みたいになりましたが、やがてお互い
中学生になるころには、どちらからとなく文通は途絶えてしまいました。



鳥取砂丘はあまり思い出も残っていませんけれども
そのとき通った福知山市は忘れられない街、しっかりと記憶に残っていました。

そして不思議なことに、50年も過ぎた今も
その文通相手の住所と名前をはっきり覚えているのです。


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初めての信州 [黒い玉手箱]

昔話も三分の一ほど話を終えましたのでimg001.jpg

今回からは愛知県も含めて信州や北陸

方面の思い出を書いていきたいと思います。

右のパンフレットは1970年ころの木曽路

パンフレットですが

今回は初めて信州に行った思い出話をします。

免許を取得して中古のカローラを買ってから間もなくのことです。

旅の雑誌をよく読んでいたので、たぶん雑誌の影響だと思いますが
たまらなく白樺湖諏訪湖に行ってみたくなって
春になったある日の早朝一人で初めて長野方面に向かって走りました。

以下の画像はネットから借用

諏訪湖

3.jpg

愛知県豊田市を出発して瀬戸市を過ぎると岐阜県の多治見市や恵那市。

そして憧れの長野県に入ると有名な馬籠宿妻籠宿があるのですが
このときはまだ歴史より風景が優先だったので
この宿場町を訪れるのはまたその3年ほど後になります

ネットで調べたら馬籠宿だけが、平成の大合併で岐阜県になっていました。

ここからがそのときのただ一つの思い出に残ってしまう出来事です。

木曽路(国道19号線・旧中山道)を気持ちよく走っているときに
突然警察が現れて私に止まれと合図をしました。
免許取得して初めての違反で捕まってしまったのです。

初めてネズミ捕りに遭った

記念の土地名が43年たっても1歌川広重.jpg

忘れられないのですが

塩尻市洗馬(せば)という所です。

馬を洗うなんて書いて洗馬

変な地名だなと思ってずーっと覚えていたのですが
その時のスピードもたった12キロオーバーの72キロだったので

なんでこのくらいのスピードで捕まえるんだ~と思ったことを覚えています。

そしてその洗馬も宿場だったのはついさっきネットで知ったばかりです。

今まで変な地名と思っただけで、考えたことはなかったのですが
その地名の由来はネットでも調べることが出来ませんでした。

しかしネットでみつけた右上の歌川広重の洗馬宿の絵
たぶん木曽川だと思いますが
長旅で汚れた馬をきれいに洗ってあげた宿場、だから洗馬なんて
地名になったのかなと勝手に想像しました。(たぶん違うでしょう[ふらふら]

そんな思い出が残りましたが、目的の諏訪湖と白樺湖を見ることができ
ますます信州ファンになって、その後何度も信州に行くことになりました。


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バスツァーのご案内 [黒い玉手箱]

お知らせプー太2.JPG

お父さんが1971年の木曽路を巡るバスツァー参加者を募集します。

img005 - コピー.jpg

あなたぁ~といつかぁ~歩いた木曽路ぃ~[揺れるハート]

みんなとボクは~訪ねてきたぁ~♪

木曽路ぃ巡りのぉ~バスはぁ走るぅぅぅ~♪

窓にぃぃぃ~広がるぅ~高い~ぃ山よぉぉぉ~[るんるん]

お父さんは、山本コータローさんの替え唄まで歌って上機嫌[わーい(嬉しい顔)]

日時:12月2日(日曜日)

集合場所:ブログ「プー太とにころ山」

ツァー料金:250円

お父さんのブログを見ている方は無料です、みなさん待っていま~す


タグ:木曽路 信州
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木曽路のバスツァー [黒い玉手箱]

特別企画img001.jpg

ようこそ41年前の木曽路を走るバスツァーへ

みなさん待ってましたよ~[わーい(嬉しい顔)]

さて本日は41年ほど前の信州木曽路を走る

バスツァーに参加下さいましてありがとうございます。

今日は特別にんたけ交通さんから

41年前に木曽路を走っていた
大変古いバスを無料で借りてきました。
私プー太の父が運転手兼ガイドをしますので
今日はゆっくり木曽路を楽しんでくださいね。

さぁみなさん早く乗って下さいよ~

秋の木曽路のバス旅行出発でーーす[バス]

 

初めの古い(41年前)パンフレットの山は
有名な木曽の御嶽山(おんたけさん)ですが
ちょうどバスの中からも見えますから後ろを見て下さい。

すばらしい雪景色でしょう
あれが木曽の御嶽山(御岳山とも言う)ですよ。

img005 - コピー.jpg

遠くから見てるだけではつまらないですね
せっかくだから木曽福島から中山道
(国道19号線)を出て御岳山の近くまで行ってみますか。

い忘れましたが私は大型1種の免許しか持ってないので
本当はバスの運転は出来ないのです
[ふらふら]

もちろん警察には内緒ですよ[exclamation]

私の座席の後ろにあるクーラーボックスに
口止め料の飲み物[ビール][バー]がたくさん入ってますので
好きなだけ飲んでくださいね。

乗客のみなさん
ところでこの上り坂、こんな古いバスで大丈夫かね~

古いバスさん
何を心配してるんですか
私は若いころあちこちの高原を走り回ったんです。
高速道路ばかり走ってるそのへんの
へなちょこバスと一緒にしないでくださいよ

さあ登りますよ~ナンダ坂コンナ坂ヤッホー[バス][exclamation×2]

さすが、おんたけ交通一のど根性バスと
言われただけあって元気がいいですね。
見かけはボロボロでも性格は明るいし
みなさん安心して山の風景を楽しんでくださいよー

01 - コピー.jpg

ここはもう御岳高原ですよ、いい風景でしょう[わーい(嬉しい顔)]

もう少し奥までバスを走らせますね、ここは開田村。
開田村と言ったらこれも有名な開田高原があります。

今は懐かしい木曽福島町も開田村も
その他の村などと合併してしまったので現在は木曽町と
言うようですが、思い出の地名が変わるのは少しさびしいですね。

橋を見て下さい、今にも落ちそうな木で作ってありますが
私が子供の頃は田舎の国道も木の橋でした。
この辺はどこへ行っても御嶽山が主役ですね。

01 - コピー - コピー.jpg

それではまた中山道(国道19号線)に戻って
今度は反対側にそびえる駒ヶ岳の裾野、木曽駒高原に向かいますよ。

いい風景でしょう、山ガールさんもうっとりして眺めていますね

img001 (2) - コピー.jpg

そのときの若い私なんですが
この時の風景が本当に気持ち良くて、今もすごく記憶に残っています。

img001 (3) - コピー - コピー.jpg

img001 (3).jpg

さて木曽町のすばらしい高原巡りも終えて
バスはツァー最後の地、上松(あげまつ)町に入ります。

この町も木曽福島との合併の話があったのですが
住民投票の結果、合併しないということになったようです

上松町の景勝地と言ったらもうここです、その名はねざめの床

ねざめの床は岩と木曽川の水流で出来た自然で
大正時代には国の名勝に指定されていたそうです

img001 (2).jpg

さあみなさん腹も空いたでしょう

今日のバスツァーの最後は
おんたけ交通直営のドライブインで昼食です。

今日は「プー太とにころ山御一行様」の貸切ですから
ここでゆっくり飲んで食べて下さい。

img005 - コピー (2).jpg

さてそろそろみなさん食事も終えて
ドライブインから出てきましたね。みなさんだいぶ
飲みましたね~顔が真っ赤で、木曽路の紅葉みたいですよ[わーい(嬉しい顔)]

今日はバスツァーに参加くださいましてありがとうございます。
 
あとは解散場所の名古屋駅まで走るだけ
途中には妻籠宿や馬籠宿などまだまだ見る
ところがありますが、またいつかの機会にして
名古屋駅に向かいますよ~みなさん揃いましたね。

出発しまーす[バス]

木曽路ぃめぐ~りのぉ~バスはぁはしるぅぅぅ~[るんるん]


おわり



あとがき(41年前の私もひとこと)

41年後の私が運転したバスの乗り心地はいかがでしたか
きっと心配で
のんびり風景なんか楽しんでられなかったでしょうね。

このドライブインでもらった1枚の古いパンフレット
いつかまた絶対来たいと思って持ち帰ったパンフレットでした。

それが41年後ブログの読者の
みなさんと一緒に来ることになるなんて
とても考えられないことでした。時代は変わりましたね。

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富山からやってきた後輩 [黒い玉手箱]

昔話(愛知県在住時代の40年ほど前)

私が21~22歳のころ
私よりも4歳年下で、中卒で働いていた後輩がいました。

無口な少年で、人とはあまり会話もしない彼でしたが
私にはなつくので、コージ(幸司)と呼んで可愛がっていました。

そのコージから
年末も近くなった或る日「俺ん家一緒に行こうよ」と誘われます。

せっかくの正月に、他人の私がお邪魔するのは気がひけるので
断りましたが、何度か誘われてついに行ってみることにしました。

その街は富山県城端町

ネットで調べてみると越中の小京都と呼ばれているらしく
合併により、現在は南砺市になっていました。

彼の実家は農家だったので、冬の農村の風景を
楽しませてもらいましたが、柿の木の高いところに取り残しの柿が
何個かぶら下がっていたのが珍しくて記憶に残っています。

やがて私も北海道に帰りたくなってしまい、23歳のときに
5年と3カ月暮らした愛知県を離れ、北海道に帰ることになります。

そして3年後、私が北見に住みついて結婚したころでした。

ジリリーン[電話]

後輩
もしもしプー太の父さんしばらくでした、そっちに遊びに行っていい?

電話は年賀状の返事もロクにもらったこともないコージからでした。


おお元気だったか、いつでも来いよ
 夏休みでも冬休みでも好きな時に来てくれ。

後輩
それじぁ明日行くから


なにぃ[exclamation×2]明日って・・・お前
 いまどこにいるんだ愛知県かそれとも城端か[exclamation&question]

後輩
愛知県の会社は辞めて城端に帰ったんだけど
 北海道が見たくなってブラリと旅に出て今サッポロに着いたところ。
 サッポロに着いたら北見まで行ってみたくなって・・・


そうかわかったすぐに来いよ
 明日の朝札幌を出ると夕方前には北見に着くから

次の日の夕方に無事にコージと北見駅で再会

37年前、再会と別れの場所になったJR北見駅

2.jpg

ちょうど仕事も連休になったところなので、摩周湖や阿寒湖など
あちこちドライブに連れて行って3泊ほどして
コージは国鉄の北見駅から、列車に乗って富山に帰って行きました。

無口で人との会話も苦手なコージが
国鉄の列車を乗り継いでよく北見まで来たものです。

そんなコージからはその後も何も連絡もなく
音信不通の状態ですが、それが彼らしいところ。

いつかまた突然電話をくれて[電話]

プー太の父さんしばらくでした
 ブラリと旅に出ていま北見に着いたんだけどぉ~

なんて、白髪がいっぱい生えたコージが現れそうな気もするのです。

 

 


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父と遊び回った夏休み [黒い玉手箱]

 愛知県在住時代(私が18歳~23歳の頃)の昔話

 以前の昔話で1.jpg

日本最北端の村(私の故郷)に住んでいて

若い頃住んでいたサハリンと北海道しか

知らない私の父親が

初めて津軽海峡を渡って

万博見物のために

大阪に行ったことを書きましたが

いろいろ古い資料を調べてみたら

そのときには私の住んでいた愛知県には寄らないで次の年のことでした。

すっかり旅行の楽しさを知った父が1年後、四国に旅行に行っての帰り
当時私の住んでいた愛知県豊田市に寄って、ちょうど私の夏休み
ということで、1週間ほどゆっくり遊んで北海道に帰って行きました。

特別な思い出も記憶に残ってないのですが
旅に目覚めた父に楽しんでもらおうと、あちこち走り回ったときの
領収書などとっておいたので、少しそのときの様子を思い出してみます。

img001.jpgimg001 - コピー.jpg

 

 

 


昭和46年7月31日 

父が私のところ(愛知県豊田市)に到着。

8月1日

この日は地元愛知県内をあちこち見て回りました。

8月2日~8月4日

2泊で信州、山梨、箱根方面へ

まず南信州下伊那郡にある冶部坂高原に1泊

信州の白樺湖や諏訪湖などを見て南下、山梨県内を

あちこち見ながら富士五湖の河口湖で宿泊。img001 - コピー (2).jpg

翌日乙女峠を通って箱根見物

東名高速道路を走り

浜名湖などを見ながら豊田市に帰りました。

8月5日

地元豊田市の周辺をのんびり見物して休養。
次の日は父が見たいと言っていた飛騨高山や金沢の兼六園に向かいます。

8月6日~7日

早朝愛知県豊田市を出発
国道41号線の岐阜県の山奥を走っているとき、今まで経験したことのない
大粒の激しい雨が降って恐ろしかったことが記憶に残っています。

なぜ恐ろしかったかというと
この国道41号線で3年前(昭和43年8月・岐阜県白川町)に
世界のバス事故で最大級と言われる大事故があったのです。

この大事故のあった昭和43年8月18日というと
私が高校を卒業して愛知県に行った年、「北海道へ国鉄で」という
ブログ記事にしましたが、旭川高専の事務職の面接試験のために
北海道旭川市に向かっている時でした。

昭和43年8月19日の急行券

img004.jpg

この事故に遭ったバスツァーは
乗鞍岳の観光ツァーでしたが、集中豪雨のために登山ツアーを
中止しての帰り道で、8月18日午前2時過ぎのことです。

1時間に149ミリという岐阜気象台始まって以来
最大の集中豪雨によるがけ崩れが発生
ツアーのバス15台のうち2台が増水した飛騨川に転落して
104人の死者、助かった人がわずか3人という大惨事だったのでした。

そんな記憶に新しい3年前のことを思い出しながらも
無事に飛騨高山を通って金沢兼六園も見物しました。

 

そして金沢からの帰り道、辰口温泉のこの旅館に宿泊します。

昭和46年8月(私が21歳の頃)
父と宿泊した辰口温泉柏木旅館の領収書

1.jpg

注)この旅館でのたったひとつの思い出ですが
大変つまらない思い出ですのですので
みなさんは読んだらすぐに忘れてください[ふらふら]

旅館でのチン事[exclamation×2]

泊まった旅館は、小さな古い温泉旅館でした。

私と父は貸切状態の小さな温泉に入りましたが
裸になってから、タオルを忘れたのを思い出して

すいませんタオルを忘れたので貸して下さ~いと言って
そのまま父と2人で温泉に入って女中さんを待っていました。

父と並んで入口を向いて温泉に浸かっていましたが
間もなく
目の前の戸を開けて
女中さんが「
は~いとタオルを私に向かって投げました。

タオルなんて落ちても壊れるものでないので放っておけばいいのに
私はタオルを受け取ろうとして反射的に
ガバーっとお湯の中から身を乗り出してしまったのです。

もう全部丸見え[ちっ(怒った顔)]

5~6人しか入れないような小さな風呂場
戸を開けてすぐ目の前に立ってる女中さんは私を見ていましたが
やがてにこ~っ[黒ハート]として立ち去つていきました。

こんなバカなことが、今でも忘れられない思い出になっています。

 

そんなことで父(平成3年に他界)とあちこち走り回った昭和46年の
楽しかった夏休み、父は喜んで日本最北の村に帰って行きましたが
旅に目覚めた父はその2年後に再び愛知県にやってきました。

それは私が5年3カ月暮らした
愛知県豊田市を離れて故郷北海道に帰るときです。

 


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愛知県へ出発 [黒い玉手箱]

昔話が前後しますが
今回の昔話は高校を卒業して愛知県に行くときの様子です。

画像はネットから借用


国家公務員の試験が受かったとき、これで無事公務員に就職出来ると
安心して、滑り止めで受けておいた会社には
都合で入社出来なくなりましたと断ってしまったのですが・・・

しかし試験は受かったもののなかなか公務員採用にならなくて
周りはみんな進学や就職が決まった頃3月
私もいよいよ焦ってしまい、何ヶ月か前に断ってしまった会社に
事情が変わったのでぜひ私を使ってください手紙を書きます。

一度断ってしまったのでもうダメかなと思っていたら
その会社の人事部から、ぜひ来てわが社で頑張って下さいというような
手書きで心のこもった温かい返事が返ってきました。

その会社は今や世界のトヨタ自動車

こうして愛知県に行くことになりますが、このときはまだ公務員の
空きが出来たら、すぐに北海道に戻れるんだからという気楽な考えです。



1968年(昭和43年)4月

当時は飛行機なんて贅沢、国鉄で2泊3日の予定で故郷を出ました。

 

 

1日目

朝~故郷を出発、途中で宗谷本線に乗り換え夕方札幌着。

夜~寝台列車で札幌出発。

2日目

午前~函館から青函連絡船[船]に乗り換えて午後3時頃青森に着く3 - コピー.jpg

夜~寝台列車で青森出発

3日目

朝~東京に着いてから東海道本線で名古屋に向かう

午後~名古屋に着いてから名鉄電車[電車]で豊田市へ。

夕方~指定された旅館に到着。



こうして寝台車に2泊して無事に豊田市に着きましたが
途中での忘れられない思い出をひとつ。

青森駅に着いたときは高校生の下校時間だったので
駅の中にはたくさん高校生がいましたが
私のすぐ近くの女子高生同志の会話を聞いてびっくり
imageCAJKGIB7.jpg

ぜんぜん言葉が分からないのです[ちっ(怒った顔)]

津軽海峡を渡ったらここはまるで外国??

後日、東北出身の人にそんな話をしたら

津軽は東北の中でも、まったく別な国のようだと聞いて納得出来ました。
東北の人がそう言うのだから私に津軽の言葉が分かるわけがありません。

トヨタ自動車は大会社だけあって全国から人が集まっているので
言葉を聞いてるだけでも面白いし、何ヶ月かすると
この人の出身は何県の方だろうと少し分かるようになってきます。

しかしあの青森駅で聞いた女子高生の津軽弁は
まったく意味不明で、外国語みたいな言葉には驚いたものでした。

いま考えてみると寝台車に2泊もして行くのなら
千歳空港から名古屋空港(小牧市)まで飛行機で行っても
たいした料金も変わらなかったかもしれません。

こんな長距離で3日もかけての列車や船の旅は
その後経験してないですが、まるで集団就職の個人版のような長旅でした。

この日は旅館で一泊、翌日から寮生活と新入社員の教育が始まりました。


あとがき

もしもいま豊田市に行こうと思ったら、午後1時半過ぎ我が家を出発
女満別空港午後2時50分発~名古屋(中部国際空港)午後5時着
空港からバスに乗り、午後7時頃には豊田市に着いてしまうようです。

しかも早割だと16,500円程で行けるようで
航空運賃もずいぶん安くなったものです
[exclamation×2]


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暑かった豊田市 [黒い玉手箱]

今日から2~3回、豊田市やトヨタ自動車工場の昔話をしたいと思います。

その当時の豊田市、人は男性の若者が多くクルマもたくさん
走っていましたが工場の街の雰囲気が強く、田舎者の私が
言うのも可笑しいのですが、なんとなく田舎くさい街でした。

私にとっての豊田市は働いて食べて寝るところ・・・
そんな程度しか思いつかなくて、思い出に残ったのは
豊田市を拠点にしてあちこち走り回った先のことばかりです。

そんなことなので昔話は
豊田市の記事を書くのが後になってしまいました。

豊田市の駅前大通りを写したカラー写真
すっかり色あせていますが、駅前の大通りで七夕の頃かと思います。
 
この近くにあった中華料理のレストランで
たまぁに少しだけ贅沢な食事を楽しんだことは覚えています。

当時の駅前大通り

img001.jpg 

商店街に入ると、どこを歩いても細くてカーブした道が多く
郊外も街の中も直線道路ばかりの北海道から出て行った私には
珍しい街の様子で、城下町のような雰囲気でした。

思い出と言ったらとにかく暑かったことばかり

真夏でも海からの冷たい風が吹く日は
夕方からストーブを点けるくらい涼しい故郷から
出て行った私には、豊田市の湿度の高い夏は強烈なものでした。

九州や沖縄から来ていた人達も
豊田市のほうが湿度が高くて暑いと言ってたのです。

あの頃、トヨタの工場の中は業務用の大きな扇風機をあちこちに
置いていましたが、真夏の暑いときに私はよく
扇風機のスィッチを切って仕事をしていました。
工場の中の空気が暑くなってるので
扇風機を回すと熱風になって襲ってくる感じなんです。

ネットで最近の豊田市の気温を調べてみたら
35度~37度くらいの日が結構あるので、当時もそのくらい暑かったのか
工場の中は窓や大きな扉は全開でしたが、機械の熱や窓から日が
差したりするのでかなり高温になっていたと思います。

水ばかり飲んで塩分不足に
なるのを防ぐために塩を置いてた職場もありました。

元気だった私も3年目の真夏が終る頃ついにダウン。

ただの夏風邪だろうと思ってトヨタ病院[病院]に行ったら
急性腎炎なのですぐ入院しなさいということで
人生ただ一度の入院(2週間ほど)も経験しました。

しかし体調も良くなるとまた元気に走り回ります。

 

 


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トヨタのうなぎ [黒い玉手箱]

今日から楽しみの9連休に入りました~

連休に入ったら冬タイヤを夏タイヤに替えて
冬物をクリーニングに出して、にころ山にも登って
プー太とたくさん散歩して・・・などなど考えていました。

しかし雪が降り積もってしまい
おまけにしばらく天気も悪そうなんですよ。

少しは予想していたことですが、まったくがっかりしました[ちっ(怒った顔)]

P4280173.JPG

そんなわけで連休初日は特別な話題もなかったので
この前の昔話・トヨタ自動車の思い出の続きを少しお話することにします。


トヨタでの食事の思い出話

画像はネットから借用

まず一番の違いは味噌汁でした。

白味噌の味噌汁ばかりで育った私が
愛知県に行ったら、寮の食事はもちろん街の食堂も
みんな赤い(濃い茶色)の味噌汁なんです。

初めの頃はなかなか好きになれなかったのですが
そのうちに慣れてきたら美味しく感じるようになってきました。

たまたま街の食堂で
白味噌の味噌汁を出してくれるところを見つけたので
白い味噌汁が恋しくなったときは、よくその食堂にも行ったものです。

工場や寮の食事はすごく安く1食30円とか70円くらいだったと思いますが
寮の食堂では食事の他に、うどんや生卵と牛乳が安い値段で置いてありました。

食事はあまり美味いものが出ないしP1110499_m.jpg

おかずの量も少ないので

朝の食事で生卵を1個、夕食のときは2個と

毎日のように生卵を3個も食べていました

工場での昼食のときは卵が売ってなかったのですが
もしも工場の食堂でも生卵が売っていたら
1日に4個も食べていたかもしれません。

そして牛乳は食事のたびに1本ずつ、毎日3本ずつ飲むことがほとんどでした

食事は美味いものがあまりなかった記憶ですが

かけうどん

北海道のうどんのように醤油たっぷりではないのに味が良くて
これが関西風のうどんなのかと喜んで食べていました。

こんなことで少し物足りない寮や工場の食事ではありましたが
みんなバリバリ仕事をしていたところを見ると
ちゃんと栄養は考えてくれていたのだと思います。

しかし或る日の食事にビックリ[exclamation×2]01.jpg

入社した年の夏だったと思いますが

なんとウナギが出たんです。

この写真の半分くらいの量かなと思います。

あのときは何かの記念だったのかもしれませんが
工場の昼食だと4万食以上
寮の食事で寮生だけが食べたとしてもすごい数だったでしょう。

うなぎなんて食べたことがなくて、このときが初めてでしたが
そのウナギの美味かったことが忘れられなくて、その数年後に
北見に住むようになってからも何度かウナギを食べたのですが
トヨタで食べたウナギほど美味いウナギはありませんでした。

 


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お化けがキャー! [黒い玉手箱]

黒い玉手箱(愛知県在住の昭和43年から昭和48年の思い出話)

みなさんは、この世に幽霊やお化けが存在すると思いますか[exclamation&question]04.jpg

たぶんそんなものいるわけがない、いたら会ってみたいもんだ

 

きっとそう言われるでしょう。
でもこの思い出話を読んだ後、みなさんの考えは180度変わるのです。

)幽霊やお化けに弱い方は夜に読まないでください。

 

今から43年ほど前、私が20歳の頃

猛暑も過ぎ秋がきて、やがて晩秋にさしかかるころ
私の元に大学(女子大)祭があるからぜひ来てみませんかと
誘いがありましたが、
女子大なんて行きたいと思っても行ける
ところではないので、もちろん私は喜んで行くことにします。

待ちに待ったその日、大学の所在地愛知県の犬山市に向かいました。

大学の玄関前で誘ってくれた方が待っててくれて
憧れの女子大の中をあちこち案内をしてくれます。

ここまでは何事もなく楽しく過ぎましたが

こんな涼しい季節になぜかお化け屋敷があったのです。

気の弱い私は、お化けなんか見たくなかったのですが
せっかく案内してくれるのにと思って渋々一緒に入りました。

お化け屋敷の中はグリーンやブルーの照明
気味の悪い笛や太鼓の音も聞こえてきます。

とても女子大生が作ったとは思われない怖~い雰囲気がたっぷり。

そしてあちこちからお化けが出てきますが、男の私が
キャーなんて声を出すわけにいかないので、ぐっと耐えて歩いていると[がく~(落胆した顔)]

私の顔の前にヌーっと不気味な手が現れました

01.jpg

ワーっ[exclamation]と大声を出したいところですが
周りはみんな女の子、どうせお化けも女の子。

イタズラ好きな私は「女のくせに男を驚かすとはなんだ~」とばかり
お化けの手を握ってしまったのです。

これにはお化けもびっくり、きゃ~~~ぁぁぁ[exclamation×2]

お・し・ま・い

 

うです?すごーく怖かったでしょう

今夜は眠れそうもないとう方はお酒でも飲んで寝てくださいね~[わーい(嬉しい顔)]

ちょっとしたイタズラ心だったのですが、お化けは私の予想以上に
ビックリしてしまって少し度が過ぎたかなと反省をしたのでした。

あと書き

犬山市といえば、明治村と国宝犬山城を絶対に忘れてはいけませんね。

またその1~2年後に一度だけ訪れたことがあったのですが

とても見応えのあった明治村、そして古い歴史を感じる名城・犬山城など
愛知県犬山市はとても素晴らしいところでした。

 


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ルポライター鎌田さん [黒い玉手箱]

今日の昔話はトヨタ時代の驚き[exclamation]の思い出

私がトヨタ自動車を退社して間もなく、一冊の本に出合いました。

本の題名は自動車絶望工場

少し読んでみると、なんと私が所属していた本社工場機械部の話題。

そしてもう少し読んでみてびっくりしました~[exclamation×2]

私の働いていた隣の組の、知っている仲間の名前が何人か実名で
そしてエピソードなどもいっしょに書かれていたのです。

この本を書いたルポライターは鎌田慧(さとし)さん

 

今はNHKテレビや新聞に登場するほど有名な
ルポライターですが、当時私のすぐ近くにルポライターが
季節工として入り込んでいたとは・・・本当に驚きました。

入社したとき私は鎌田さんとは隣の組だったので
直接鎌田さんと会話したこともなかったのですが
あのとき自分の周りに季節工は一人しかいなかったし
作業帽子で区別されていたので
あぁ鎌田さんってあの人だったんだ~」とすぐに思いだしました。

鎌田さんを見たのはトヨタに入社した年で、その後私も鎌田さんのいた組に
異動になったのですが、その時にはもう鎌田さんは退社していたようです。

びっくりするやら、嬉しいやら懐かしいやらで
私はすぐに鎌田さんに手紙を出したのですが、すぐに返事をいただきました。
しかしその大切な手紙がどこへ行ったのか、紛失してしまったのです[ふらふら]



トヨタ自動車工場の本ですが、自動車絶望工場なんてすごい題名です。

でも

鎌田さんはルポライター、私は希望に燃えた?社会人一年生

働く目的も違っていました。

けして楽な仕事ではなかったかもしれませんが
あのときトヨタ自動車を絶望工場なんて思ったこともなく
こうして楽しかったあの頃を懐かしく思い出しています。


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恐いおじさん [黒い玉手箱]

黒い玉手箱(愛知県在住時代の思い出話)

愛知県に住んでいた5年と3カ月
故郷の最北の村は遠くて簡単に帰省は出来ませんでしたが
初めての帰省は飛行機で、2度目の帰省はクルマの長旅でした。

今回は愛知県に行った年の暮、飛行機で帰省したときの思い出話です。

飛行機と言っても国鉄の列車で帰省しても
たいした変わらないくらい時間がかかりました。

 

豊田市から名鉄電車に乗り320px-Toyohashi_Station_(2011_07).jpg

岡崎市まで行きます。

岡崎市は国鉄東海道本線が

通っているので国鉄に乗り換え

そして蒲郡市など通って

夜11時頃豊橋市に着きました。

 

豊橋市からは東京行きの急行や特急が走っています。 

豊橋駅の思い出

やれやれ豊橋駅に着いたのですが、夜中の11時も過ぎる頃なのに
駅の中はたくさんの人で込み合っていました。

東京行きの電車が名古屋の方から来るまで1時間以上あります。

どこか座る所がないかと捜したら、座るところがありました。

ベンチに腰掛けようと思ったそのとき

隣に座っていたおじさんの顔を見てびっくり[exclamation×2]

恐い顔をして、どこか普通の人と雰囲気が違うんです。

そしてベンチの横や背後には
恐い顔をしたお兄さんたちが立っていました。

座るのを止めて逃げ出すわけにもいかないので
小さくなってジーッと座っていると
その恐いおじさんが私に話しかけてきたんです。

恐い顔に似合わず話題が豊富で
私の知らない世界の話を面白可笑しく聞かせてくれて
すっかり私はおじさんの話に楽しくなってしまいました。

そして日付も変わる12時頃
そろそろ東京行きの電車の到着時間が近づいてきたので

私は、ところでこんな夜中におじさんはどこまで行くんですか~と聞いたら

恐い顔をしたおじさんは、名古屋から友達が来るので迎えにきたんだ

と言いました。

こんな恐そうなおじさんの友達も
やっぱり恐い顔をしてるんだろうなと思って
友達という人の顔を見てみたかったのですが
その電車に私が乗るので顔を見ることは出来ませんでした。

こうして楽しい1時間ほどを過ごさせてもらって
おじさんにお礼を言って東京行きの電車に乗ったのです。



初めての飛行機

朝、東京に着いて羽田空港に向かいます。

そして生まれて初めて飛行機に乗るのですが、私の隣の席に
座った同年代の男性も、この日が初めて飛行機に乗ると緊張していました。

飛行機が走りだして急加速、私も恐かったのですが隣の男性を見たら
下を向いて目をつぶって、歯をしっかりと食いしばっていました。


千歳空港からバスに乗って札幌駅に着いたのですが

稚内方面行きの便利が悪くてgaiyo_map.gif

また夜行列車に乗ることになります。

こうして飛行機の旅とは言っても

列車の中で2泊もして帰った遠い故郷でした。

 

 

 

 


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故郷へクルマで帰る 第一話 [黒い玉手箱]

 黒い玉手箱(愛知県在住時代の昔話)

前回は飛行機で帰省した思い出話でしたが
今回はクルマで2度目の帰省をした思い出を書いてみます。

22歳の時、中古のカローラから新車スプリンターに乗り替えました。

当時トヨタのカローラスプリンターは、若者をターゲットにして
日産サニークーペと激しい販売合戦を繰り広げていましたが
そのカローラスプリンターからカローラという名が消えて
スプリンターとして独立しました。

下の写真はそのときの私のスプリンターですが
たしか値段は50万ちょっとだったと思います。

写真をスキャンしたら紺色になってしまいましたが
実物はもう少し薄い色で、紫がかった綺麗なブルーだったのです。

愛車スプリンター1200cc(帰り道岩手県で)


0001.jpg

1972年7月30日

夏休み前最後の仕事が終った日の夜、豊田市を出発。

あのときは早く日本海側に出てしまいたいと思ったのか
長野県を通らないで岐阜県を北上します。

夏休みに入ったとは言っても、真夜中の山の中の国道は
すれ違うクルマも少なく、
気持ち悪いくらい静かで寂しいものでした。

暗闇の中、前方にダムの灯りが見えてホッとしたときに

当時ヒット中の朱里エイコ北国行きでカーラジオから流れてきました。

愛する人に別れも001.jpg

告げずにさよならして

次の北国行きの

電車が来たら乗ってしまうという

疲れた愛に

サヨナラしようとする歌だったのですが

ちょうど真っ暗闇の山の中を北国に向かっていた走っていた私は
気持ちも高ぶっていたせいか、すごく感傷的になってしまった曲でした。

ほとんど休憩も取らないで走り続け、富山県に入ったときには周りも
明るくなり、黒部川と書いてあった大きな橋を渡ってから眠気が襲ってきました。

仮眠のため道路脇にクルマを停めました。

そして山の方を振り返って驚きました[exclamation×2]巨大な山の風景だったのです。

地図で確かめたのですが、たぶん剱(つるぎ)岳など立山連峰かと思いました。

その頃は登山などまったく興味がなかったのですが
山の風景には異常なくらい関心があったので、今もあのときの
巨大な感じの山の風景が忘れられないで脳裏に残っています。

立山連峰(ネットから借用)

2.jpg

余談になりますが2009.jpg

3年ほど前にそのときの迫力ある

立山連峰の景色を期待して

映画、剱岳・点の記を観てきました。

期待した迫力ある山景色は

あまり見れなかったのですがとてもいい映画でした。

7月31日

さて少し仮眠をしようと思ってクルマを停めたのですが全然眠れません。

またすぐに走りだして新潟に向かいますが
途中で長い時間ずーっと私のクルマの後ろについてくるクルマに気が付きます。

信号で離れてもまた次の信号待ちで一緒になったりして
何時間も後ろについてきました。

ルームミラーで相手の顔を見るとやはり私くらいの年齢で一人旅のようです。

何時間も一緒に走ってるともう他人のような気がしません。

そのうち私から離れてしばらく見えなくなったので
もう会えないだろうと思ったら、またまた追いついてきたんです。

私もすっかり嬉しくなって、窓から手を出して後ろのクルマに手を降りました。

後ろのクルマの男性
また追いついたよ~
という感じでニコニコ笑顔で手を振っています。

何時間も一緒に走ってたのですが、いつか本当に
見えなくなったときには寂しくなりましたが、そのうち新潟市に着きます。

田舎の親も心配してると思って郵便局から電報を打ちました。

イマニイガタニツイタ[車(セダン)]

山形県に入った頃、買って間もない愛車が急に調子悪くなって
アクセルを踏んでも全然スピードが出なくなってしまったんです。

仕方がないのでトヨタの販売店を捜しながら
のろのろと走り続けたら山形県酒田市に入りました。

トヨタの販売店で修理をしてもらってまた出発

酒田市を北上して間もなく秋田県が目の前になったころ
鳥海山スカイラインという道路標識が立っていたのが記憶にありました。

変わった名前の山だったので覚えていただけですが
鳥海山が日本百名山のひとつの有名な山だったと分かったのは
登山をするようになった50歳になったころです。

鳥海山(ネットから借用)

 8.jpg

秋田市も近くなったころには
夕方になっていたようですが田沢湖を見るために
日本海と別れて岩手県の盛岡市方面に向かって走ります。

途中で暗くなり、しかもほとんど寝てないのでどこかの山中
クルマの中で2晩目を過ごすことになりました。

第一話おわり

あと書き

記憶を頼りに出来るだけ正確に書こうと思っていますが
41年も前の昔話なので100%とは言えなくて
事実と若干の誤差はあるかもしれません。

でもそのときに感激した風景や出来事は
間違いなく今もはっきり記憶に残っているのです。

 


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故郷へクルマで帰る 第二話 [黒い玉手箱]

黒い玉手箱(愛知県在住時代の昔話)

(写真はすべてネットから拝借しました)

前日はまったく寝ないで走り続けたので
二晩目はクルマの中でぐっすり眠ることが出来ました。

1972年8月1日

早朝目覚めてすぐに田沢湖に向かって出発。

走り出して間もなく、私の走っている道路の眼下に田沢湖が見えました。

あまり走らないうちに田沢湖が見えたので
二晩目の車中泊は、たぶん田沢湖の近くの山中だったと思います。

朝早いせいか、もやがかかって湖はきれいに見えなかったのですが
念願だった田沢湖を見ることが出来ました。

田沢湖

1.jpg

田沢湖からは盛岡に向かいますが、この間が山の中の何もない道路で
すごく長く感じて、盛岡はまだかまだかと走った記憶がありました。

そして盛岡からは東京と青森を結ぶ国道4号線に入って、夕方前に青森に到着。

無事に青森に着いたと書きたいところですが・・・[ふらふら]

やはり夏休み最中ということで
北海道行きのフェリーは混雑していて夜中の便に乗ることになりました。

それでも青森まで来ると北海道は目の前・・・ということで

安心してしまって気が抜けたのか、北海道を目の前にして
キーを車内に入れたままドアをロックしてしまったのです。

私も一瞬途方にくれてしまったのですが
このとき近くにいた人が、私の困った様子を見ていて
自分のクルマに戻って道具箱を持って来ました。

昔のクルマはドアの前方に三角窓がついていたのですが
その三角窓の隙間から針金をいれて
三角窓のロックに引っ掛けてロックを解除。

そして三角窓に手を入れて腕を伸ばしたらドアのロックに手が届きました。

こうして親切な人のおかげで難をのがれて
夜中11時50分函館行きのフェリーに乗ることが出来たのです。

41年前の乗船券(クルマとドライバーで5,800円でした)

img001 (2).jpg

8月2日

フェリーの中で三泊目、朝早くついに北海道に上陸しました。

津軽海峡を超えるとあとは故郷まで陸続きなので
気持ちも楽になりますが、函館から故郷までまだ630キロもあります。

それでも自分の運転で北海道を走ることが楽しみだったので
函館を走ってるときは
とうとう北海道に帰ってきてしまったなぁと感無量でした。

img001 (3).jpg

函館市を過ぎると見覚えのある素晴らしい山が見えました。

楽しかった高校の修学旅行
同級生とワーワーキャーキャーと騒いでいたときに
列車の窓から今まで見たことがない山景色が見えたのですが

北海道にもこんな綺麗な山があるんだなぁと
列車の窓からしばらく見とれていたことを思い出します。

あのとき夕陽に照らされた山景色は
とても綺麗でなんとも言われませんでした。

標高はそれほど高くもないのですが、厳しいのにどこか優しい山景色。

それは北海道駒ヶ岳なんです。

駒ヶ岳(1131m)

1.jpg

それから八雲町、長万部町など海岸線を走って洞爺湖が見える頃
たまらなく北海道の牛乳が飲みたくなって
どこかのドライブインで牛乳を飲んだのですが
それは美味くて美味くて、牛乳はやっぱり北海道だと思いました。

心に残る景色が山と湖ばかりになりましたが、やがて札幌が近ずいてきました。

故郷では父が首を長くして私の帰りを待っているのですが
このとき私は札幌に住む親せきのところに一泊する約束をしていました。

そして地図を頼りに道に迷うこともなく札幌の親戚の
家に着いたのですが、なんと[exclamation×2]田舎で待っているはずの父がいたんです。

驚きましたが話しを聞くと
ジッと待ってられなくなったのと、札幌からドライブを楽しむつもりで
故郷から出てきて私が札幌に着くのを待っていたのです。

8月3日

予定では親戚の家に一泊してこの日に故郷へ向かうハズだったのですが
父も来たことだし親戚の子供たちも夏休み、もう一泊することになって
父と親戚親子を連れてドライブに出かけました。

来る時に通ってきた洞爺湖まで行って昭和新山や
白老(しらおい)町のアイヌ部落のようなところを見てきたのですが
昭和新山は中学校の修学旅行以来でした。

昭和新山とは私の生まれる6年前の昭和18年から19年にかけて
大爆発を17回も繰り返して出来た標高398mの山です。

昭和新山(398m)

3.jpg

こうして父と札幌の親戚親子と一緒に北海道の風景を楽しんで
この日も親戚の家に宿泊しますが、豊田市を出てから五晩目の夜も過ぎて
いよいよ明日は故郷に向かいます。

第二話おわり

あと書き

この愛知県から北海道へのドライブは
豊田市を7月30日に出発して、豊田市に帰ったのが8月14日の夜でした。

あのころトヨタでは、7月末から1週間ほど夏休み
そして1週間働いて今度はお盆休みが3日か4日あったと記憶しています。

ですから北海道に帰るため
有給休暇を含めてたっぷり長期の夏休みになったと思うのですが
どちらにしても、こんな長旅はこれが最初で最後でした。

それではまた第3話もぜひ読んでくださいね~[わーい(嬉しい顔)]

 


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古い扇風機 [黒い玉手箱]

黒い玉手箱(愛知県在住時代の思い出)

ブーンパタパタパタ・ブーンパタパタパタ

どこか優しく懐かしい音を聞くと、あの暑かった愛知県の夏を思いだします。

トヨタの寮に住んでいたとき、私の部屋は鉄筋コンクリートの
4階だったので、メチャクチャ暑いとも思わなかったのですが
2年ほどすると周りにもちらほらアパート住まいする人が出てきます。

私も自分の城が欲しくなってしまい
寮を出てアパートを借りることにしました。

城と言っても4畳半の小さな部屋なのですが、城は城です。

このアパート、冬は良かったのですが夏が暑くて暑くて
平屋で屋根はトタン、太陽の熱をいっぱい吸収するせいか
部屋の中もすごく暑くなってしまうのです。

その寝苦しい夜をどう過ごしたか

寝る前にタオルを持って共同洗面所兼、台所兼、炊事場に行って
水をたっぷりタオルに含ませて軽く絞ります。

北海道と違って、いくら水を出しても
ぬるま湯のような水しか出てきませんが、たっぷり水分を含んだタオルを
部屋に持って帰り、パンツ1枚になって布団の上にあお向けになります。

もちろん窓は開けて網戸ですが
風なんてまったくないし、外は夜も暑いので
窓を開けても閉めてもあまり変わらないような感じでした。

 

そして濡れたタオルを腹の上にのっけて1.jpg

扇風機を回してそのまま朝まで眠るのです。

夏は毎日のようにこんな恰好で寝ていましたが

北海道でこんなことしたら
夜中に冷えて、一晩で腹を壊してしまうでしょう。

そのときの扇風機の音が、ブーンパタパタパタって
まるで子守唄のような優しい音に聞こえたのです。

やがてトヨタを退社して北海道に帰るとき、ステレオや
買ってほとんど使ってない百科事典などは、質屋さんで処分したのですが
暑い夜を共にした扇風機を愛知県に置いて帰るのは寂しい話。
まだまだ頑張ってもらわなくちゃと思い、北海道に持って帰ることにしました。

 

 1973年(昭和48年)7月29日2.jpg

トヨタを退社して

北海道に帰る途中

栃木県塩谷郡藤原町

民宿「男鹿荘」にて

ルーフキャリアの上の

段ボール箱に

扇風機が入っています。

 

そんなことで北海道に帰ってからも、年に何回か
あの暑いアパートの夜を思いだしながら使用していたのですが

5~6年前、サンヨーの古い扇風機で発火する事故が続いて
使用するのは止めて下さいという記事を新聞の広告で見たのです。

私の大切にしていた扇風機も、ちょうどその製造の年に該当してしまい
とうとう使用を諦めることになってしまいました。

後日、ゴミ処理場に捨ててくることになりましたが
私にとってはトヨタ時代から使っていた思い出のもの

ただの電器製品とは思われず
長い間頑張ってくれてありがとう感謝の気持ちを込めて置いてきたのです

 

あと書き

その後買った扇風機の音を聞いていたら
あの4畳半で使っていた、古い扇風機を思いだしてしまいました。

何か一つだけでもトヨタ時代の思い出のものを
とっておくつもりで大切にしていた扇風機だったのです。

扇風機を積んだ私のスプリンターの写真の風景ですが

1973年7月末、トヨタを退社して愛知県豊田市を出発、長野県に2泊

妻籠、馬籠、上高地、松本城、黒四ダムなどをゆっくり見てから

群馬県渋川市を通過して日光を見物

それから福島県の猪苗代湖を見たいと思って
会津若松に向かう途中の山の中の民宿でした。

 

 


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故郷へクルマで帰る 第三話 [黒い玉手箱]

クルマで愛知県から北海道に里帰りした昔話

この昔話が最後まで終らないうちに、お盆に墓参りのために故郷に行った
今の話をしてしまったので、少し話がややこしくなってしまいましたが
第二話まで書いた昔話の続きになります。

(画像は全部ネットから借用しました)

1972年・8月4日~8月9日

田舎の実家から札幌の親戚の家に来て
私の札幌到着を待っていた父と二人で故郷へ向かったのが8月4日。

札幌から350キロほど走って実家が近くなってきた頃
対向車線を、私とよく似たクルマが走ってきました。

ブルーのカローラクーペ
よく見ると私と同じ
三河ナンバーと気がついた瞬間
カローラクーペがクラクションを鳴らして同年代の若者が手を振っていました。

愛知県の三河地方に住んでる者同士がこんな日本の最北近くで出合うと
よくここまで走ってきたね~なんて嬉しい気持ちになります。

これだけが田舎のただ一つの記憶。

実家に滞在した4日から9日まで、ほとんど記憶がないのです。

こんなとき何か資料や写真があればいいのですが。

帰省の話なのに実家での思い出がないとは残念ですが
田舎の実家で楽しくすごしたことでしょう。

しかしこの後の日付が入った、阿寒湖のホテルと網走で撮った写真が
ありましたので、帰り道のことはいろいろ思いだしました。

 

 それではここから愛知県に戻る話です

あの頃、職場のトヨタでは日本全国からいろんな人が来ていましたが
北海道の話題になるとすぐに網走が出てくるんです。

全国的には札幌よりも網走の方が
知名度が
高いのかと思うくらいよく話題になりました。

それは映画、高倉健の網走番外地シリーズが大ヒットした影響でした。

私は北海道出身なのに一度も網走を見たことがありませんでした。
網走を知らなければ、北海道の人間として少し恥しいと思っていたほどです。

8月10日

そんなわけで愛知県に帰るのなら
まっすぐ札幌に戻れば早いのに、ぐる~っと200キロ以上も遠回りをして
オホーツク海側を知床に向かって走り、網走に行くことにしました。

実家でいよいよ父と別れて、私一人で網走に向かうつもりでしたが

な~んと[exclamation×2]

田舎から札幌まで私を迎えに来た父が
またまた一緒に網走を見ながら札幌に行くというのです。

大阪万博に行ってからすっかり旅好きになってしまったので
私が網走に行くと言ったら、もうジーッとしてられなかったのでしょう。

こうしてまた父との二人旅になりました。

5.jpg

 

私の故郷は宗谷郡ですが
オホーツク海側を知床方面に向かって南下すると、雄武町から網走郡になり
紋別市を過ぎるとサロマ湖が見える湧別町や佐呂間町を通ります。

一緒に旅をする父も
網走なんか行ったこともないので、初めて見る風景でした。

4.jpg

 

同じオホーツク海側でも北の方は荒涼としていますが
紋別市や湧別町あたりから、背の高い木も増えて緑が濃く感じます。

サロマ湖も過ぎると赤いサンゴ草がきれいな能取湖。

 

初めて見る景色を楽しみながら5.jpg

故郷から

約250キロほど南下して

網走湖が見えると

いよいよ網走市に着きました。

 

初めての網走の印象

同じオホーツク海なのに、故郷に比べたら空や緑の色が濃くて
それにあのころは、まだまだ映画網走番外地の影響ですごい数の観光客です。

あのとき、オホーツク海側にも、こんな明るく活気がある街があるんだなぁ
思ったのが第一印象でした。

網走刑務所などを見ましたが
これで愛知県に戻って北海道の話が出ても

俺は北海道人、網走だって行ってるぞ~と自慢話が出来るのです。

第三話おわり

 

 

 

 

 


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故郷へクルマで帰る 第四話 [黒い玉手箱]

愛知県から北海道へクルマで帰省した昔話

1972年8月10日(41年前)

念願の網走を見た後は摩周湖に向かいます
私も同乗の父も、網走はもちろん摩周湖も初めて

とにかく広い北海道
交通の便利も道路事情も悪かったあの頃は
道北に住んでいると、旭川や札幌などは行く機会が多いのですが
 
網走、釧路など道東は
道北に住んでいた私にとっては、まるで他県のような感覚でした。

初めて見る摩周湖を楽しみにしていたのですが
摩周湖が近づいてきたらだんだん霧が濃くなってきて、センターラインの
白線もすぐ目の前でないと、見えないくらいになってしまいました。

もう走るのも止まるのも
危険な状態になってしまったのですが、恐る恐るなんとかUターン。

昨年の夏もやはり霧がかかって摩周湖は見れず

8.JPG

4年前の還暦登山のときは9月だったのできれいに晴れました

7.JPG

いくら霧の摩周湖と言っても、あんなひどい霧とは予想外
あと少しのところまで行ったのですが、諦めることになってしまいました。

朝、故郷を出発して走行距離も300キロを超えた頃
日もだいぶ傾いてきたので、そろそろ宿泊するところも決めなくては

そしてこの日の宿泊は阿寒湖の温泉と決めて阿寒湖に向かいました。

しかし夏休み真っ最中
阿寒摩周国立公園の温泉街は部屋が空いてなくて困っていたら

このホテル、布団部屋で良かったら泊まって下さいと言うのです。

7.jpgどこのホテルも満室状態だろうと思うと
贅沢なんか言ってられません。

布団部屋でもなんでも泊まれるのは
有難かったので、喜んで宿泊決定。

記憶では6畳か8畳くらいの
小さな部屋で、普段は布団など
置いて物置代わりの部屋です。

父と二人で4,000円と
だいぶ安くしてくれたのですが
西日がカンカン照りつけて暑い部屋でした。

こんな部屋に泊まれたのも
今になってはいい思い出に
なってしまいましたが。

 

そして次の日、父が
東洋一と自慢の北見花園
フラワーパラダイスが見たいと言います。

こうして私が22歳のときに、今は当たり前のような
顔をして住んでいる北見の街を、初めて訪れることになりました。

このとき、父が花園を見たいと言わなければ
絶対に私も北見に住むことなどはなかったのですから
私にとっては後々、大変意義のある北見訪問になりました。


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トヨタの社長 [黒い玉手箱]

黒い玉手箱(愛知県在住時代の昔話)

夜勤の仕事を終えたある日の朝、いつものように愛車で
本社から近いところに建っていた私のアパートに帰る途中

アパートが近くなった頃、向こうから歩いてくる人がいました。

いつもなら歩いてる人なんて気にすることもないのですが
スーツを着てネクタイを締めて歩く姿は

ただのサラリーマンやビジネスマンとは思えない雰囲気が漂います。

一目見ただけで、とても茶畑もあるような
私や庶民が住む住宅街には似合わない人に見えました。


そしてその人が目の前に近づいてきたので顔を見て驚きました。

私の勤務するトヨタの社長だったのです

トヨタの社長なんていったら私たち従業員にとっても雲の上の人
あとにも先にも社長を見たのはその一度だけでしたが

私が愛知県時代5年3カ月の間、お世話になったトヨタ自動車の社長
あれから40年以上も経つのに、まさか健在だったなんて本当に驚きました。

先日100歳で亡くなられた豊田英二元社長の思い出でした。

 

あと書き

当時私が住んでいたアパートから、そんなに遠くないところに
トヨタの社長の住宅があるという話は聞いて知っていましたが

いくら本社から近い所に住んでるとはいえ、私でさえクルマで通勤
していたのだから、社長が歩いて本社に行くなんて不思議に思ったものです。
背は低い感じでしたがやはりトヨタの社長、すごい風格がありました。

100歳まで生きてこられて
こうして私のトヨタ在籍時代の昔話に登場してもらえて感謝します



 


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