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伊吹山の頂上 [プー太の父の資料館]

厳寒の北見にもようやく春の気配[exclamation×2]

昨日の朝は-17度でしたが日中はプラス7度まで
気温が上昇しました。昼間もまだプラス気温になる
ことが珍しいのに7度なんて感激の暖かさです[わーい(嬉しい顔)]

これで銀メダル獲得のロコ・ソラーレが
北見に帰ったら、北見・網走・紋別など
オホーツク地方はいっぺんに春になりそうです。


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「プー太の父の歴史資料館」オープン[ひらめき]


先日テレビで滋賀県最高峰の
懐かしい伊吹山登山の様子を観ました。


以下テレビ画面です

2.JPG
3.JPG

私も一度だけ伊吹山の頂上に立ったことがありますが
21歳か22歳のときなのでもう50年ほど前のことです。

ただしあの頃は登山にまったく興味もなかったので
関ヶ原のほうから有料道路を走って伊吹山9合目
あたりにある広い駐車場に車を停めて残りは徒歩でした。

少し登ると大きな石がゴロゴロと転がっていて
やや遠くに神社のような建物などが見え、さらに
近づいてみたらそこには神様を祀ってありました。

4.JPG

山が信仰の対象になってることを知らなかった
こともあって自分がイメージしていた山頂と違い
伊吹山の頂上はすごく神々しく感じたものです。

そして今も記憶に残っている懐かしい
神様の像がこのテレビ画面です。

5.JPG
6.JPG

神様として私の記憶に残っていたのは
ヤマトタケルノミコト」でした。

私もここに一度だけ立ったんですよ
あれから50年も過ぎたんですね~
涙が出そうなほど懐かしいテレビ画面でした。
出来ればもう一度ここに立ってみたいものです。

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ここからが今日の記事の本題

「プー太の父の歴史資料館」シリーズ1回目

それではさっそくあのとき伊吹山に
行ったときの証拠をお見せいたします。

ただの紙切れも50年経つと宝物[わーい(嬉しい顔)]
これは有料道路の料金所でもらった絵葉書です
img001 (3).jpg

こちらは通行券。絵葉書にもこの通行券にもあの日の
日付がないのが残念。当時の通行料金は800円でしたが
ネットで調べてみたら現在は3140円のようです
img001.jpg
こちらは別なときに訪れた伊吹山の近くにあった
関ヶ原合戦の様子を史実に
基づいて再現したと
いわれる関ヶ原ウォーランドの入場券です。

これも日付なしですが確か52年前
img001 (4).jpg

下は琵琶湖大橋の通行券

伊吹山や関ヶ原のことはよく覚えてますが
琵琶湖大橋など渡った覚えがまったくありません。
でも鮮明に昭和46年8月29日の日付が見えるので
たぶん涼を求めて琵琶湖までドライブしたのでしょう。

あのころ就職先近くの名古屋で免許を取ってから
数年間、愛知県から故郷北海道の日本最北端までの
往復を始めあちこち走り回りましたが伊吹山に
行った時はたぶん22歳のときかと思います。
こちらは日付バッチリ
今から51年前の琵琶湖大橋通行券
001 (2).jpg

また、伊吹山や琵琶湖周辺というと
彦根城にも車で行ったことがありましたが
こちらは入場券も何も残っていませんでした。

「プー太の父の歴史資料館」シリーズ

年に何度か昔のものをお見せしたいと思いますが
50年ほど前のものがたくさんあります。

関東の皆さま
若かりし頃の私が東京都内を走った50年前の
日付が入った首都高速の通行券も何枚かありますよ。

関西の皆さま
大阪万博の入場券もあります
東北の皆さま
会津磐梯山スカイラインの通行券も

長野県民の皆さま
こちらの資料が一番たくさんあります
なにしろ一度住んでみたいと憧れの地でしたから

その他いろいろあるので乞うご期待です\(^o^)/




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東京の夏の思い出話 [プー太の父の資料館]

お盆と終戦記念日にこんな古新聞[exclamation]

下の北海道新聞は今から28年前(私44歳)
1994年・平成6年8月4日のものですが
他国のことをなんだかんだ言っても日本も
相当に悪い国だったと思うような1面記事です。

9.jpg

上の新聞記事は今日の話題とは無関係です[わーい(嬉しい顔)]

上の1面記事の下にはこれも大きく
記録破り炎暑列島[exclamation]

記事の内容は~「東京が1953年8月21日の
38.4度を破った」となっていますが
実に41年ぶりの最高気温記録更新でした。


1994年8月4日の新聞
0.jpg

あのとき私は夏休みの子供たちをクルマに乗せて
兄の住む埼玉県川口市までドライブ旅行に出かけ
東京が最高気温を更新した日は川口市にいました。


川口市は埼玉県ですが荒川を挟んで東京赤羽のすぐ
隣になるので、私も39.1度を体験した気分になり
この古い新聞を記念にとっておいたのです。

せっかく川口市まで行ったので
もちろん東京都内の見物に出かけました。
最高気温を記録した前日の8月2日ですが
この日もひどい暑さだったので、こんな暑さ
未体験の子供たちの体調を心配したほどでした。



東京タワーから都内を眺める
(日付は94年8月2日)
3.jpg


気象庁で過去の東京の気温を調べてみたら
8月2日も最高気温が35.5度最低気温が27.8度
都内見物した夕方もたぶん30度は超えていたでしょう。
昼間に30度超えても夕方には20度を切って少し
寒く感じることが多い北見とは桁違いの暑さでした。


そして翌日8月3日
東京の最高気温記録更新39.1度[exclamation×2]


1994年8月4日付の新聞から

14 (3).jpg
このときの東京の気温記録を
調べてみたら4日間連続猛暑日でした。


1994年東京
8月2日 最高35.5度 最低27.8度 ←午後川口市の兄宅に到着・夕方に都内見物
8月3日       39.1度      27.7度 ←東京の最高気温の記録更新・午後から群馬県に向かう
8月4日         36.6度    29.3度 ←太田市の叔父叔母宅に宿泊後新潟港に向かう
8月5日    35.9度   25.5度 ←フェリに1泊後小樽港へ・夕方北見到着



なお10年後の2004年7月2日に39.5度と
記録が更新されているので、あの39.1度は
現在は東京歴代2位の記録のようです。

でも毎年のように猛暑猛暑と言われる現在も
28年前の記録がまだ2位に残っているので
やっぱりすごい記録だったんだなと思います。



帰路8月5日・新潟~小樽間の新日本海フェリー
間もなく北海道、小樽港から約320キロ走って夕方北見到着

5.jpg


埼玉県川口市に1泊・群馬県太田市に1泊フェリーに
往復2泊。休みが5日間だったので4泊の忙しい駆け足
クルマ旅行になってしまったのはちょっと残念でしたが
燃えるように暑かった夕方の都内見物を忘れられません。


その後は60歳の頃から飛行機と電車を利用して
毎年のように川口市へ行ってましたが、3年前の川口
旅行で鎌倉へ行った後はコロナのために中断しています。


修学旅行以来52年ぶりの鎌倉訪問・3年前

CIMG5544.JPG


コロナが終息したらすぐにでも
川口旅行に出掛けたいと思っています。
たまに東京の空気も吸いたいですからね~[わーい(嬉しい顔)]

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古い新聞 [プー太の父の資料館]

桜前線が目の前までやってきました。
朝早く霊園にある私の桜標本木?を
見てきましたが開花寸前でした。

この調子だと午後から開花しそうですが
今日も寒く、昼頃にはチラッと雪が降ったり
してるので開花は明日になるかもしれません。


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古い新聞です


何年前の新聞だと思いますか?
記事を見ながらご想像ください(^^♪

0.jpg


このときの総理大臣は福田赳夫。
田中角栄の次に総理になった三木武夫が
「三木おろし」で退陣したあとでした。

大相撲は北の湖の全盛時代で
東の横綱・北の湖 西の横綱・輪島
大関に若貴の父・貴乃花
平幕には外人初の関取・高見山や
後の横綱・千代の富士の名も見えます。

2.jpg

プロ野球巨人軍の監督は長嶋茂雄
王、堀内、柴田などのV9選手はまだ現役
阪神は田淵に掛布、広島は山本浩二
ヤクルト若松、大杉、中日は谷沢に大島
中日のエースは炎の男・星野に大洋は平松

WBCメンバーもすごい活躍でしたが
この時代もそうそうたる顔ぶれでした。

3 (2).jpg

いまは北見にイオンシネマしかあり
ませんが、このころには5軒ありました。
シアター有楽では「人間の証明」が
1本300円で上映されていましたが
次週は「獄門島」の案内も。

4.jpg


前日の気温を見ると、東京は25.4度だったのに
北見はこの中で一番の暑さ27.7度を記録
していました。たぶん5月に多いフェーン
現象だったのでしょう。天気図も手書きです。

6.jpg

そしてこちらはUFO出現か?

7.jpg

UFO騒ぎの
この記事、ちょっと
面白いので簡単に紹介します。

ビリビア南部のアンデス山ろくに異様な
金属物体が耳をつんざく爆発音を発して落下
同時に無数のダイナマイトが一時に破裂した
ような地響きが発生、住民をパニックに陥れた。


現場に近い住人によると、頭上
約90メートのところを目にも止まらぬ
スピードで飛び去り山に激突して爆発。
その音ははるか150キロも離れた
アルゼンチン領内までとどろいた。

この謎の物体の正体を解明
するためボリビア政府の要請で
NASAの科学者チームも現地入り。

一方、この事件の後
アルゼンチン北部では空飛ぶ円盤を
見たという住民の通報が相次いでいる。

これはなんだったんでしょうね

45年前の昭和53年5月の新聞でした。


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マイクさんお元気そう [プー太の父の資料館]


先日、テレビにマイク眞木さんが
映っていました。いや~お懐かしい[exclamation×2]


350-8.jpg

古い話ですが48年前、私は仕事で札幌へ出張し
中学高校と仲の良かった友人と「ススキノ」で
落ち合い、二人でスナックに行ったときのことです。

店のドアを開けると向こう正面の方には
二人の男性がお酒を飲んでいましたが
その一人の男性を見てびっくり仰天[目]

その方は驚いてしまってただ突っ立っている私たちに
にっこり笑って「おいでおいで」と手招きしてくれたので
私と友人はもう夢心地で近付きましたが、その方は
テレビでしか見たこともない歌手のマイク眞木さんでした。

22.jpg


私が26歳のときだったので「バラが咲いた」の
大ヒットから9年ほど過ぎたころですが、紅白歌合戦にも
出た超有名人なのに少しも偉ぶることもなくとても気さくな
方で、私と友人はマイク眞木さんのことをマイクさんと
呼ばせていただきながら、マイク眞木さんと面白い人柄の
マネージャーみたいな方と楽しい会話で盛り上がりました。

私はお酒をご馳走していただいたうえに
名刺の裏にしっかりとサインまでいただいて
おきました。抜け目がないですね~(^^;)


当時、私が新婚ホヤホヤだったことを知った
マイクさんはこんなサインをしてくれました。
02.jpg

その後はマイク眞木さんをテレビで見かけた記憶が
ありませんでしたが、ススキノのスナックで美味しい
お酒をいただきながらの1時間ほど、楽しい会話をさせて
いただいたことは夢のような思い出になっています。

このとき一緒だった友人に何年か前の同窓会で
この話をしましたが、こんな素晴らしいことが
あったのにまったく覚えていませんでした。

私もサインをいただいてなければ「ススキノ」の
出来事はただの妄想で終わっていたかもしれません。
マイク眞木さんのサインは私の大切な宝物です[わーい(嬉しい顔)]


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あれから50年 [プー太の父の資料館]

昭和49(1974年)年2月から
北見市民になって50年過ぎました。

昭和49年の写真が何もなくて残念ですが
当時のものが2枚ありました。下はその年の
夏にサーカス見物をしたときの入場券です。
(その後北見にはサーカスが来ていません)

360-11.jpg

パイオニアステレオが当たる昭和50年用の
くじ付き年賀ハガキも昭和49年に発売。

360-12.jpg

たまたま私も北見に来たこの年にパイオニアの
ステレオを買って音楽を聴いていましたが
だCDが出る前だったのでレコード盤でした。
(なんでこんな古いハガキが残ってるのか不思議です[わーい(嬉しい顔)]



ーーーー50年間にいろいろありましたーーーー

昭和59年8月~昭和61年1月
一和会系のヤクザと稲川会系の地元ヤクザの抗争

やられたらやり返す。双方で組長や組員など4人が
死亡するという大きな抗争になってしまい、葬儀の
たびに北見市内には道内はもちろん道外ナンバーの
外車がたくさん入り込み、郊外のあちこちでパトカーの
検問が行われるなど物騒な日々が1年半ほど続きました。

これは北海道では最大のヤクザ抗争と言われ
のちに映画にもなっています。

340.jpg


昭和61年1月
市内一部の町内で原因不明の都市ガス漏れ事故


最初の死者からガス漏れの原因がすぐに解明出来ず
その後2人目そして3人目の死亡者が出て11人が病院で
手当てを受け、付近の住民が
多数避難するなど
大騒ぎになりましたが
数年後にテレビの1時間番組の
ネタに
されるほどのミステリアルな事故でした。

原因は厳しい冷え込みによる凍土の膨張のため
ガス管が切断されてしまったのが原因のようで
したが、
この事故以降は天然ガスに変わり
古いガス管の取り替えも進みました。


昭和61年6月
北見市内ほぼ全域で4~5日間の断水

原因は北見市を流れる常呂川の上流で
集中豪雨が起きたため浄水場に大量の濁水流入。


飲料水はスーパーに行っても棚から姿を消しているし
市の給水車には水を求める人で混雑しているので
夜中に給水車に行ったり、
郊外まで湧水を汲みに
行ったりトイレ用に雨水を溜めたり、初めての長い
断水経験で大慌てしました。


平成30年9月
北海道全域でブラックアウト

胆振東部大地震の影響で北海道が真っ暗。
ブラックアウトなんて初めて聞く言葉ですが我が家でも
停電が2晩続き、3晩目の夜にようやく電気が来ました。
冷房も暖房も必要ない季節だったのでまだ良かった
ですが、もしも真冬だったらと思うとゾッとします。

50年間で楽しいこともたくさんありましたが
なぜか事件や災害のことが強く記憶に残ります。


 

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