久しぶりに昔話です。

故郷は小さな漁村。

小学低学年のころは
小さな子から大きな子まで
みんな一緒になって遊んでいました。

夏場の遊びは、缶蹴り・野球・魚釣りなどが主です。

 

61年前、私が小学1年のとき。 

2歳年上の良ちゃん
5~6歳年上でガキ大将のただおちゃん
ただおちゃんの小さな弟のケンちゃんはまだ4歳

大きい小さいは関係なく、み~んな
○○ちゃんと呼びあって仲良く遊んでいたものです。

 みんな仲良く魚釣り

 
 

右は仲良しだった2歳年上の良ちゃん。

左の丸坊主はてっちゃん、後のプー太の父#59120;

 
 
私の隣に座っている良ちゃんの妹
名前はたしかマチコちゃんだったかな。
当時の少女の髪型の定番キノコカット?なんですが
この写真ではちょっとわかりずらいですね。
 

当時はわが家の目の前に
電電公社(日本電信電話公社・現NTT)の
猿払中継所とその家族が住む官舎があったので
仲良くしていたのはおもにその子供達でした。
 
しかし電電公社は転勤が多いので
ときどき遊び仲間も入れ替わったりします。
そして私が中学生になるころには
中継所がなくなってしまったので、仲良く
遊んでいた仲間達は誰もいなくなってしまいました。

 
樺太と北海道を結んだ海底ケーブルと
電電公社・猿払中継所跡の記念碑
 
 

この記念碑のすぐ目の前、この空地に
漁師をしていた父が自分で建てた家があり
ここで私が高校を卒業するまで住んでいました。


天気のいいいときには
わが家から樺太(サハリン)の島影が
見えましたが、父もその樺太から
逃げるようにして北海道に渡った1人でした。

 


私が生まれる15年前

1934年・12月

樺太(サハリン)と北海道を結ぶ
海底ケーブルが猿払のこの場所に完成
樺太・札幌・東京と通信網が広がりました。

その海底ケーブルを通しての
大事な中継の役割を果たしたのが
私の家の前にあった猿払中継所だったのです。

太平洋戦争時、樺太の北はソ連領南が日本領
戦時中としては比較的穏やかだったようですが
終戦を告げた玉音放送から数日後、日ソ不可侵条約を
一方的に破棄してソ連軍が日本領へ侵攻してきました。

 

広島に原爆を落とされた2週間後

1945年・8月20日

海の向こうの樺太・真岡郵便局に
勤務する9人の乙女たちの
最後の声を猿払中継所が最初に受信。

 

「皆さん これが最後です
さようなら さようなら」


ソ連軍の侵攻を前に9人の電話交換手の
若い女性が自決死してしまった悲しい出来ごとは
「北のひめゆり」とも言われ小説や
「氷雪の門」という映画にもなりました。

ソ連に南樺太を奪われ
樺太との通信もなくなり

国内では通信網の改良などのために
猿払中継所もその必要性がなくなります。

こうして猿払中継局は1964年9月
東京オリンピック開催の数日前
ちょうど30年の歴史に幕を閉じました。

私が中学3年生のときでした。


子供の頃

海がすごい大荒れの後だけ
砂浜が削られて錆びた太いワイヤーが
姿を現すのですが、そんな悲しい歴史があった
海底テーブルだったなんて全く知らないことでした。

 


 
注#59138;)

自分の記憶とネットのチカラを借りて
記事にしましたが、3年ほど前にも似たような
記事を書いたことがあったので重複する部分があります。

なお、稚内市の稚内公園には
1963年に「九人の乙女の像」が健てられ
その当時の関係資料なども展示されていますが
詳しいことはこちら稚内市の観光情報でご覧ください。
#59136;
http://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/kanko/gaiyo_rekishi/9ninotome.html