故郷へクルマで帰る 第五話 [黒い玉手箱]
昔話(今から41年前、愛知県から北海道にクルマで帰省した思い出話)
さてこの長いクルマの旅、第四話からだいぶ
間があいてしまったので、簡単にこれまでの道程を説明しておきます。
愛知県から北海道に渡って無事に故郷に到着
そして愛知県に戻る途中、父も一緒に同乗して初めての道東
網走や摩周湖、阿寒湖などを見物して阿寒湖の布団部屋に宿泊。
というところまで書いてから、しばらく中断してしまいました。
1972年8月11日
早朝阿寒湖のホテルを出て、父が見たいと言っていた
北見フラワーパラダイスを見るために北見市に向かいました。
網走をはじめ道東は初めてなので、もちろん北見市も初めての訪問となります。
北見市というと小学校の社会の時間に習ったか
地図に載っていたかで覚えていたのですが有名なのはハッカでした。
そして北見市に着いて父が見たいと言っていた
北見フラワーパラダイスに到着しますが、花の記憶はまったくないのです。
いつまでも心に残ったのはこの展望台から見た北見の街並
オホ-ツクブルーの青い空
山に囲まれて東西に伸びる白く輝く北見の街並
(カメラと腕が悪くて綺麗に撮れなかったのですが)
この風景がまるで信州の雰囲気に見えたのです。
あの頃、山景色の大好きな私は北海道に帰らないで
長野県に住みたいという願望もあったのですが、なにしろ父の住んでる
故郷から遠過ぎたので、いつかは北海道に帰ろうと思っていました。
しかしこの展望台から見た北見の街の雰囲気
私の抱いていた信州のイメージとよく似ていたのです。
決めました北海道に帰ったら北見に住むんだと
そしてこの風景を見た1年半後、私は北見市の住人になったのです。
あと書き
この昔話は続きがまだ少し残ってしまいましたが
せっかくだから北見の話をしようと思います。
続きは次回までお待ちください。
明治35年頃から始まったハッカ生産が
昭和14年の最盛期には、実に世界の70%のシェアを占めて
当時の北見は大変な賑わいだったようです。
その後あちこちの国から、安いハッカや合成ハッカが出回って
北見ハッカは衰退してしまったのですが
今も当時の様子を伝えるハッカ記念館などがあります。
当時の豪邸、薄荷御殿も保存されています
衰退してしまったとはいえ
現在もハッカ豆やハッカ飴、ハッカのつまようじや
おしぼりなど、いろんなハッカ製品が製造販売されています。
s14 私の生まれた時、ハッカ世界の70%、凄いですね。
by 和 (2013-10-02 05:39)
和さん こんにちは~
昭和14年、和さんの生まれた年だったのですか
北見では今もミントのつく名前や催し物、
雑誌や情報誌の名前とか、いたるところでミントという
呼び名を使用しています。
ハッカは古くから医薬品、歯磨き粉、チューインガムなどに
使われていて、今はほとんど合成ミントが主流のようですが
ハッカ使用してるものには、メントールと表示されています。
by プー太の父 (2013-10-02 11:54)