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故郷へクルマで帰る 第五話 [黒い玉手箱]

昔話(今から41年前、愛知県から北海道にクルマで帰省した思い出話)

さてこの長いクルマの旅、第四話からだいぶ
間があいてしまったので、簡単にこれまでの道程を説明しておきます。

愛知県から北海道に渡って無事に故郷に到着
そして愛知県に戻る途中、父も一緒に同乗して初めての道東
網走や摩周湖、阿寒湖などを見物して阿寒湖の布団部屋に宿泊。

というところまで書いてから、しばらく中断してしまいました。

 

1972年8月11日

早朝阿寒湖のホテルを出て、父が見たいと言っていた
北見フラワーパラダイスを見るために北見市に向かいました。

網走をはじめ道東は初めてなので、もちろん北見市も初めての訪問となります。

北見市というと小学校の社会の時間に習ったか
地図に載っていたかで覚えていたのですが有名なのはハッカでした。

そして北見市に着いて父が見たいと言っていた
北見フラワーパラダイスに到着しますが、花の記憶はまったくないのです。

いつまでも心に残ったのはこの展望台から見た北見の街並

12.JPG

 

オホ-ツクブルーの青い空
山に囲まれて東西に伸びる白く輝く北見の街並
(カメラと腕が悪くて綺麗に撮れなかったのですが[ふらふら]

P9170039 - コピー.JPG
 
 

この風景がまるで信州の雰囲気に見えたのです。 

あの頃、山景色の大好きな私は北海道に帰らないで
長野県に住みたいという願望もあったのですが、なにしろ父の住んでる
故郷から遠過ぎたので、いつかは北海道に帰ろうと思っていました。

しかしこの展望台から見た北見の街の雰囲気
私の抱いていた信州のイメージとよく似ていたのです。

決めました[exclamation]北海道に帰ったら北見に住むんだ

そしてこの風景を見た1年半後、私は北見市の住人になったのです。

 


 あと書き

この昔話は続きがまだ少し残ってしまいましたが
せっかくだから北見の話をしようと思います。

続きは次回までお待ちください。

明治35年頃から始まったハッカ生産が
昭和14年の最盛期には、実に世界の70%のシェアを占めて
当時の北見は大変な賑わいだったようです。

その後あちこちの国から、安いハッカや合成ハッカが出回って
北見ハッカは衰退してしまったのですが
今も当時の様子を伝えるハッカ記念館などがあります。

1.JPG2.JPG4.JPG

当時の豪邸、薄荷御殿も保存されています

5.JPG

 

衰退してしまったとはいえ
現在もハッカ豆やハッカ飴、ハッカのつまようじや
おしぼりなど、いろんなハッカ製品が製造販売されています。

 

 

 

 


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故郷へクルマで帰る 第六話 [黒い玉手箱]

昔話・今から41年前

1972年8月11日

初めて訪れた北見
フラワーパラダイスの展望台から眺めた北見の街並がすごくきれいに
見えたことだけが強く印象に残って、あとは何も記憶にないのですが
父もきっとフラワーパラダイスの花を楽しんだことでしょう。

花の最盛期にはこの山のあちこちにいろんな花が咲きます

(7,8年前の写真)

04 5月28日フラワ-パラダイス -.JPG05 - .JPG

こうして故郷から網走、霧の摩周湖、阿寒湖、北見と見てまわり
1泊2日で700キロ程の父とのドライブも終わって札幌の親戚の家に到着。

この親戚、故郷に帰る途中で2泊、そして愛知県に戻るときに
また1泊と、父と二人ですっかりお世話になってしまいましたが

父の弟の娘だったのです。

子供のいなかった父母の幼女として父母、祖父母と暮らしていました。
私が2歳で父母の元にもらわれて行ってからは
私の姉として3年ほど
一緒に暮らしていましたが
私が5歳頃のとき、親(父の弟)のところに
帰って行きます。

そういうわけで血は通ってないのですが
いとこのような姉のような人で、ちょうどつい最近の9月中ごろ
札幌からバスに乗って6年ぶりに北見(我が家)に遊びに来ました。

この昔話の頃は私が22歳、この人は32歳、そして先日
遊びに来た時には74歳になっていて、いろいろ昔話に花が咲きましたが

もう北見に来るのも最後かもしれないなぁ
私が死んでもわざわざ札幌まで葬儀に来なくてもいいからね」

なんて寂しい言葉がでてきました。

話が横道に入ってしまいましたが、この札幌の親戚の家で1泊して
父は北の故郷へ、私は長旅を終えていよいよ愛知県に戻ることになります。

愛知県豊田市を7月30日夜に出発して
ここまで13泊、ずいぶんとゆっくりしたものでした。

8月12日・札幌から豊田市に向かって出発

もう帰り道の記憶もほとんどないのですが
途中の畑作地帯の平野の中に、びっくりするような山が見えました。

まるで富士山のようなきれいな姿、周りは山がなく
畑の中にドーンとそびえる感じのこの山、忘れられない山景色です。

日本百名山のひとつ羊蹄山1,898m(ネットから拝借)

1.jpg

夕方近く函館のフェリー乗り場に到着
あのときは夕焼けがとてもきれいで、もう愛知県に戻るのが嫌になって
このまま北海道に残りたいと思ったのですが
夜の8時30分のフェリー青森県の野辺地行きに乗ります。

2.jpg

夜中の1時か2時ころ、青森県野辺地港に到着して国道4号線を南下した
ところまでは覚えているのですが,その後の記憶がほとんどなくて
最後の記憶は信州の仁科三湖(青木湖・中綱湖・木崎湖)を通過したこと。

私が運転席から見た、たくさんの人達がボート遊びなどしていた湖はたしか
木崎湖だったと思うのですが、これを最後にまったく記憶になくなっています。
たぶん大町市、松本市などを通って豊田市に帰ったと思われますが・・・

 

後立山連峰と仁科三湖(ネットから)

KitaAlpsNishinaSanKo.jpg

 


そんなことなので、豊田市に着いたのが8月13日の夜なのか
14日なのかはっきりしませんが、どちらにしてもたっぷり2週間の夏休み。

長~い長~い
愛知県から北海道へクルマで帰省した22歳のときの思い出話でした。

終わり

 後書き

その後またトヨタで頑張ることになりますが
この1年後の夏、いよいよ暑いのも嫌になってしまって
トヨタを退社して北海道に帰ることになりました。

故郷北海道の最北の村から、旅好きになってしまった父が
豊田市まで出てきて、またまた親子旅が始まります。

そのときの領収書や資料はだいぶ残っているので、今回の話よりもっと
詳しく書けるかと思いますが、またいつかその様子も記事にしたいと思います。

 

 


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バンドデビュー [黒い玉手箱]

1968年
トヨタに入社して1カ月か2カ月、私がまだ18歳のとき

独身寮の夕食が終る頃
どこからかギターやドラムの音が聞こえてくるようになりました。

私も高校時代に少しやったことがあったので
興味が湧いてきて或る日の夜、音の聞こえる方に行ってみたのですが
音は寮の集会場の中とわかったので、ついでに覗いてみることにしました。


集会場の中に入ると
ちょうどギターが一人足りないので
仲間に入ってくれないかと
誘われてしまいます。

私もサイドギターくらいならいつでもOKということで
即仲間に入れてもらうことになりました。

リーダーでボーカルの先輩が22~23歳くらいで鳥取県出身
あとは私と同じ新入社員だったと思いますが、大阪、熊本、鹿児島
そして私が北海道と、全国から人が集まるトヨタらしいメンバーの顔ぶれです。

ときどきみんな集まって何回か練習したころ
いよいよデビューが決まりました。

[イベント]会場は寮の食堂です。


寮の夕食時間も終わったころライブが始まります。
寮と言っても鉄筋4階建の大きな建物が何棟もある
マンモス団地のような寮なので、大勢の寮生が集まってくれました。

私はサイドギター担当だったのですが、1曲くらい私にも
リードギターをやらせてくださいと事前にお願いしていたのです。

そのとき私の弾いた曲はベンチャーズのクルーエルシー

 

 

演奏後、この日一番の大きな拍手を浴びたのでした。

(ここはちょっと記憶違いかもしれませんね~[わーい(嬉しい顔)]

その後ユニフォームを作ることになりました

上は忘れましたが
下はサイドに黄色のストライプが入ったピンクのズボン。
ちょっと紫がかったようなピンクでしたが、私はこんな派手で
趣味の悪いユニフォームなんか着たくないと思っていました。

そんな派手なピンクは
鳥取出身のリーダーの好みだったのでしょう。

しかしそれからは私を始め、他の新入社員メンバーも
夜勤だ遅番だと、本格的に交代勤務が始まって
練習にもなかなか全員集まることが出来なくなってしまいます。

やがてバンドは一度もユニフォームを
着ることもなく、自然に消滅してしまったのでした。

 



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小さなスナック [黒い玉手箱]

愛知県在住時代の昔話

私が高校を卒業する年、今から45年~46年前の1968年3月
賑やかだったグループサウンズも下火になる頃、こんな曲がヒットしました

甘くせつないロマンチックないい曲でしたので
60代70代の方はこの曲を聴くと、あの頃に好きだったあの人のこと
またあの頃愛したあの人のことなんか思い出すのではないかと思います。

私だって、そんなロマンチックな話の一つや二つはあったのです。

この曲を聴くと思い出しますね~[黒ハート]

 

そういうことで今回は名曲小さなスナックの思い出話

 

トヨタに入社して間もなく、同部屋の仲間で遊び好きのW君の誘いで
時々飲みに出かけるようになって、スナックめぐりが始まりました。

あの頃トヨタの周辺には、小さなスナックがたくさんあったのですが
飲みに行くと、よく「お客さんは関東の人?」とか「東京の人?
なんて
ホステスさんに言われたものです。

(注)これは言葉の問題ばかりでなく、その当時の
若かった私がどこかアカぬけして見えたのかもしれません
[わーい(嬉しい顔)]

 

 北海道は道南を除いたらほとんどなまりもないのですが
全国各地の言葉が入り混じっていたトヨタの周辺のスナックの
ホステスさんは、なまりのないのは関東人と思い込んでいたようです。

「お客さんは東京の人?」なんて言われると内心嬉しいのですが
そんなときはぐっと腹に力を入れて、高倉健のようにニヒルで低い声で

アナタ、お若いのに見る目がありますね

な~んて

18歳で童顔の私が、母親かと思うくらいのホステスさんに
言うもんだから「ギャハハハハーー[exclamation×2]

入れ歯が飛んでくるんでないかと思うくらいの大笑い。

そのあとは北海道の自慢話をたくさんしてあげましたが
小さなスナックのホステスさん達は
北海道の話を喜んで聞いてくれたものでした。

 

アララ[exclamation&question]

ちょっと記憶の整理箱を開け間違ったようで
ロマンチックでないほうの
小さなスナックの思い出話をしてしまいました。[わーい(嬉しい顔)]


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同級生がやってきた [黒い玉手箱]

 

黒い玉手箱:愛知県在住時代の昔話(私が18歳から23歳のころ)

中学1年生が(本当は小学生のころからという記憶もあるのですが
煙草は吸う、クルマは運転する、おまけにケンカ早い

前回の昔話で、この同級生のN君が豊田市に遊びに来た話をしようと思ったら
野球の話になってしまってすっかり遅くなってしまいました。

中学の時は一緒に野球に汗を流し

img001.jpg

高校時代はバンドを組んで(ドラムN君、リードギターが私右の写真)

img001 (5) - コピー.jpgimg001 (3).jpg
 
そして高校を卒業
私は愛知県豊田市に就職、同級生は札幌の大学に行きました。

 


トヨタで働くようになった年か2年目のこと、彼が友達と二人で
札幌から豊田市の私のところに遊びにくることになりました。

あのころトヨタの寮では、親や兄弟が遊びに来る時は寮の空き部屋
を貸してくれていたのだと思いますが、私が寮の事務所に行って
事情を話すと、快く部屋を貸してもらえることになりました。

こうして友人たちと私の3人が、布団も3組貸してもらって
きれいに掃除もしてある、きれいな部屋に2泊させてもらったのです。

豊田市から3人で私のポンコツカローラに乗り、N君が運転して名神高速道路を
走ったのですが、時速130キロくらいになるとクルマがミシッミシッと
飛行機に乗ってると聞こえる、空中分解でもしそうな不気味な音がするのです。

しかしそれが限界だったようで、それ以上はスピードは出ませんでした。
行った先は関ヶ原の古戦場などでした。

img001 (4).jpg

こうして寮の計らいで泊るところの心配もなく
学校を卒業してからの再会を楽しく過ごしたものです。

 


 その1年後か2年後

彼は大学を卒業して就職、千葉県に茂原市に住むことになりました。

ある日のこと、私が勤務中に電話だと呼び出されます。

電話の主はN君

すぐ近くまで来てるのでちょっとでもいいから会えないかな~
という電話でした。

当時は私はトヨタの本社工場から移動して、カローラなどを生産していた
上郷工場に勤務していましたが、N君は近くを走る東名高速道路の
上郷サービスエリアから電話をくれたのです。

もちろん私は上司の許可を得て上郷サービスエリアまで走りました。

サービスエリアにいる彼とフェンスを挟んで一般道路側から私と
奇妙な会い方でしたが、
故郷北海道の最北の村に住んでるハズの彼の
お母さんも一緒にいたので私も驚きました。

話を聞くと、岐阜のほうに有名な整骨院があるので
お母さんのために観光がてら岐阜まで行くということなのです。

ほんのわずかの時間でしたが嬉しい出来事でした。

 

それから数カ月(昭和48年3月)

 

広い北海道に比べたら愛知県と千葉県なんか近いものです。

私も東名高速道路、首都高速や京葉道路などを走って
千葉県まで遊びに行き、赤ちょうちんで一杯やったり
あちこち案内してもらったり楽しく遊んできたのです。

img001.jpg

 

さらに4ヶ月後(昭和48年7月)img002.jpg

そしていよいよ私はトヨタを辞めて

北海道に帰ることを決めましたが

北海道に帰ったら、千葉県に行く機会も

なくなると思ってまた千葉県まで走ります。

 

 

千葉県にはこの友人ばかりでなく、現在群馬県に住んでいる
叔母が船橋市に住んでいたので、このときは叔母の家に行くのが
目的だったのですが、叔母の家にお邪魔したり友人に会ったりして
最後の千葉を楽しんできたのです。

このときはトヨタを辞めて北海道に帰る1週間前でしたが
この年は愛知県に住んでいた5年間でも一番暑く感じた年でした。

やっと北海道に帰れると思って、緊張感がなくなって
しまったために余計いつもより暑く感じたのかもしれません。


それからさらに3年後

彼も札幌に転勤になり、札幌のススキノで飲みに行くことになりましたが
このとき二人で入ったスナックで驚くべきことになったのです。

以前に記事にしましたが、あの頃有名だった歌手のマイク真木さんに遭遇
マイク真木さんに、すっかりごちそうに
なってしまうという
忘れられない出来ごとがあったのでした。

何かと思い出の残った同級生の話でした。

 

 

 


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なんでもナンバーワン [黒い玉手箱]

 

今から42年ほど前の話
(愛知県豊田市在住時代の思い出)


ソチオリンピックも無事に終わりましたが
1972年札幌の冬季オリンピックを思い出してしまいました。

工場の昼休み、食堂でみんなと食事をしているとテレビは大騒ぎ。

なんと70メートル級(現在のノーマルヒル)で
日の丸飛行隊が金銀銅メダルを独占してしまったのです。

結局、札幌オリンピックでの日本のメダルはこの
3個だけだったのですがメダル独占なんて快挙、大勢の人でいっぱいの
食堂の中、みんな食事をしながらテレビに見入っていたものです。

 

 

この札幌オリンピックの2~3か月前

食事を終えて休憩していると、広報部の人が私を訪ねてきました。

何の話かと思ったら、毎月発行しているトヨタ新聞の正月号に
トヨタ何でもナンバーワン」というコーナーを企画したというのです。

何万人もいるトヨタの従業員の中で、自分が特別一番に
なるものもないハズなのですが、たった一つだけあったのでした。

それは日本の一番北から来たトヨタマン



トヨタ新聞1972年正月号(なんでもナンバーワン)

3中.jpg


 


 

5 - コピー.pngブログを始めて間もなく記事ネタに困ったころ
古い写真を公開していたブログを拝見したのがヒントになって
自分も1年半に渡ってトヨタ時代の思い出話を書いてきました。

まだまだ今まで書いてきた何倍もの思い出があるのですが
記事にするのも大変なくらい記憶も薄れてきたので
そろそろ、このへんで終わりにしたいと思います。

次回(いつになるか分かりませんが)の最終回は、5年3カ月を過ごした
トヨタを退社して北海道に帰るとき、このドライブを楽しもうと北海道の
故郷から、わざわざ豊田市に来た父との旅の様子をお話したいと思います。

 

 


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熱狂的だった中日ファン [黒い玉手箱]

子供のころは、ラジオを入れると巨人軍の試合ばかりでした。

それで大勢の道産子は、嫌でも巨人ファンになってしまうのですが
野球中継を聴いているとき、長島選手が打席に入ると
アナウンサーや観客が異様に盛り上がります。

当然のように、自分も長島選手のファンになってしまいました。

王選手もすごかったのですが、好きなのはやっぱり長島選手です。


もう愛知県時代の古い話も終了と思ったのですが
1枚の写真から、またいろいろ思い出してしまいました。
みなさん読んでくださいね~[目]

 


 

黒い玉手箱(愛知県在住時代の思い出話)

今から46年前の1968年

トヨタに入社して間もないころ
従業員は全国から人が集まっていましたが
地元三河地方や名古屋の方も多数働いていました。

あるとき野球の話になってしまって
私が巨人ファンだと言ったら、地元のだいぶ年上の先輩たちが

何が巨人だ東京だ、日本の中心は愛知県だ三河なんだ[exclamation]

まったく野球の話どころか歴史の話になってしまいます。
巨人も嫌いだけど、東京も嫌いだと言わんばかりで

最後には三河地方の自慢話になってしまうのでしたが
よく聞いていると
なるほどその通りかもしれないな、説得力もあって
三河の国を誇りに思っている気持ちが伝わってくるのです。

あのころは、プロ野球の中でも中日ファンが一番熱狂的で
球場でのマナーも悪いことは印象にあったのですが
私が巨人を応援する気持ちの何倍も
中日を応援している気持ちが分かってきました。

それ以来、職場でプロ野球のことは
なるべく
口に出さないようにしたものですが、若い人たちは
そんなにひどい熱狂的なこともなかったと思います。


一年先輩で名古屋出身の鈴木さんという方がいました。


トヨタ本社前で鈴木さんと(1971年)

img002 - コピー - コピー.jpg 

鈴木さんはもちろん中日ドラゴンズの大ファンですが
あるとき「一緒に野球を観に行こうと私を誘ってくれました。

初めてみるプロ野球は中日球場で巨人対中日
鈴木さんが、私のために巨人側の外野席に案内してくれて
中日球場の外野の巨人応援席だったのですが
敵味方なく二人で仲良く試合を楽しんできました。


このころは、後にテレビでタレントとして活躍した
巨人キラーの坂東英二さんが、中日ドラゴンズを引退した後で

楽天の監督として昨年日本一になった
星野さんがドラゴンズに入団した年が1969年

テレビで野球観戦していると
星野投手の巨人と対戦するときのファイトはすごかったものです
特に長島選手と王選手が打席に入ったときは
燃える男そのもので、まるでケンカ腰に見えた形相でした。

そしてドラゴンズの主砲として活躍した
大島康徳選手も星野投手と同じ1969年に入団しましたが
あれ以来、プロ野球を観戦したことがないので
これが最初で最後のプロ野球観戦になったのです。


さてさてこの鈴木先輩

パチンコの本場といわれた
名古屋の方だけあってパチンコが上手で
あるとき私に「本場のパチンコに行ってみよう
なんて、パチンコにも一度誘ってくれました。

鈴木さんの実家にもお邪魔したり
パチンコをして楽しんだり名古屋での思い出に残っています。

 

パチンコは、もちろん大勝利でした
本場名古屋の鈴木先輩お勧め台でやったのですから
[わーい(嬉しい顔)]

 

 


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第1話 馬籠宿・妻籠宿 [黒い玉手箱]


黒い玉手箱愛知県在住時代の思い出話

黒い箱の中のパンフレットや領収書を元に、愛知県在住時代の
若いころの思い出話をだらだらと2年間も記事にしてきましたが
残りの古い資料もいよいよ残りが少なくなって
愛知県から北海道に帰るときのものばかりになりました。

黒い玉手箱
最後の記事になると思いますが
愛知県から故郷北海道に帰る様子を書くことにします。

思い出の未公開資料も少なくなった黒い玉手箱

5.jpg

 

  
(パンフレット、領収書、写真はすべてその当時のものですが
 これらの資料を見ながら、残っているわずかの記憶をつなぎ合わせて
 父との思い出の旅を、出来るだけ再現してみたいと思います)

 

 それでは昔話を始めます。


昭和48年7月トヨタ自動車を退社


5年3カ月(18歳から23歳まで)
青春を過ごした豊田市から北海道に帰ることになりましたが
故郷北海道の北の村から
このクルマの旅を楽しもうと父が豊田市に来ました。

父は国鉄で札幌まで出てきて
それから千歳空港から羽田空港まで飛行機。
東京から国鉄・東海道本線の電車に乗り、愛知県内に入ってから
名鉄の電車に乗って、ようやく私の住む豊田市に到着しました。

今と違ってこれだけでも相当な時間をかけた長旅
しかもこのとき、今の私と同じ64歳になっていた田舎者の父が
あれこれ乗り換えて、よく迷わず豊田市まできたものだと感心します。

 

豊田市を離れる2~3年前(昭和45年頃)の七夕の写真
豊田市の中心地を写した、ただ1枚の貴重な写真です。

img001.jpg

もう北海道に帰れるんだという気持ちのせいかもしれませんが
この年の豊田市は、今までの5年間で一番暑い夏だったように思います。

とにかく早くこの暑い
愛知県から脱出したいという気持ちでいっぱいでした。


アパートの4畳半で豊田市最後の暑い夜を父と過ごし

 

昭和48年7月26

朝早く愛車スプリンターで故郷北海道へ向けて出発。

一度は住んでみたいと思った
あこがれの地、信州をゆっくり見る予定で北上。

今回第1話は、S(豊田市)からG(妻籠)までの
グリーンに表示された約90キロほどの道程の思い出話になります。

001.jpg

松本方面に行くのに何度も通ったセトモノでお馴染みの瀬戸市。
愛知県ともここでお別れですが、もう愛知県なんて来ることが
ないのかもしれないと思うと一抹の寂しさを感じました。

瀬戸市を過ぎると岐阜県多治見市に入ります。
さらに恵那市や中津川市を通って長野県に入るころ
豊田市から約90キロほど走行したところが最初の目的地。

木曽路を代表する観光地、中山道69次

42番目の宿場妻籠宿(つまごじゅく)
43番目の宿場馬籠宿(まごめじゅく)

 
01.jpg

 

どちらも見たのか、そのへんははっきり記憶にないのですが
数枚の写真が残っていて、たぶんこの写真のそば屋さんで

02.jpg

 

昼食の信州そばを食べたと思っているのですが
そばが大好物の父が、そばの本場信州
それも昔の雰囲気そのままの宿場町での昼食ということで
すごく喜んで食べていたのは記憶にあります。

03.jpg

 

なお、中山道長野県側の最南端にあった馬籠宿は
平成の大合併により、現在は岐阜県になっているようです。

 

古い街並みや信州そばに満足した父と、中山道(国道19号線)を
塩尻、松本方面に向かって走り、木曾福島を過ぎてしばらく走ると
野麦峠や上高地、高山方面へ行く道路標識が見えました。

いよいよこの旅の一番大きな楽しみ、上高地へ行く県道に入ります。


第2話に続く

 

 


  

あと書き

愛知県から北海道へ帰る旅は、ところどころ強い思い出が残るものの
記憶から抜け落ちている部分も多いので
多少の推測も入れながら話を進めていますのでご了承ください。

でも、いつも信州にドライブに行くときには瀬戸市を通り
中山道(国道19号線)を走って松本方面に向かっていたので
このルートで馬籠宿・妻籠宿に行ったことは間違いないと思っています。

そして月日ですが
そのあとの旅館の領収書やフェリーの乗車日などの日付け
黒部ダムへ行くときの大町有料道路の通行券の日付けなどから
豊田市を出発した日が、7月26日と間違いないことが分かりました。

第3話までは豊田市から上高地までの一日間の様子です

 


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第2話 奈川度ダム [黒い玉手箱]

前回の馬籠宿と妻籠宿の記事を公開した後P5180002.JPG

家にるるぶの雑誌があったことに

気が付いたのでちょっと読んでみました。

馬籠宿は、小説家島崎藤村が幼少時代を

過ごした地と書いてあります。

そう言われてみるとそうだったかと

記憶もあいまいになっています。
 

雑誌の写真を見ると馬籠宿は石畳の坂道があるのですが
自分も
確かに坂道を歩いた覚えがありました。

ですから馬籠宿は立ち寄ってきたと思うのですが
妻籠宿は素通りしてきたのか、それとも両方とも見たのかは
はっきりしません。今思えば写真の裏に撮影場所など
メモ書きでもしておけば良かったと残念に思います。

 

写真はるるぶをコピー
馬籠宿の写真には文学の香り漂う石畳の坂道
と書かれています。

P5180018.JPG

 

それでは前回の続き第2話を始めます

中山道から出て県道に入り、上高地に向かう途中
前方は乗鞍岳や立山連峰、左に木曾の御嶽山
後ろは駒ヶ岳などの木曾山脈、どちらを見ても3,000m級の山景色。

あの頃は登山など興味はなかったのですが
こんな山の風景が大好きで
いつか一度は信州に住んでみたいものだと思ったものです。


写真はるるぶをコピー

img001 (2).jpg

 

中山道(国道19号線)から走ってきた県道が終点になり
信州松本と飛騨高山を結ぶ国道158号線に入るところ
だったと思いますが、大きなダムが見えて駐車場もありました。

きっと景色もいいので、このダムのところで休憩して
ドライブ旅行の記念写真に父を写したのかなと思います。

ネットで調べてみたら
国道がダムの上を走る全国でも珍しい道路のようです。

黒部ダムに続き国内2位の大きな
奈川度(ながわど)ダムと亡き父(平成3年他界)

04.jpg

安曇三ダムと言って、水殿(みどの)ダム
稲核(いねこき)ダム奈川度(ながわど)ダムがあるようですが
私がクルマを停めたところは一番大きな奈川度ダムだったのです。

当時はダムと言えば

映画「黒部の太陽」などで
黒部ダムを知ってる程度でしたが05.jpg
この奈川度ダムは
当時高さ186mの黒部ダムに続く
高さ155mと大きなダムだったようです。
(現在は3番目)

古いパンフレットのダムの写真は

安曇ダムと書いてありますが

たぶん奈川度ダムなのでしょう。

 

そしてこのダムを過ぎるとすぐに
今も忘れられない、珍しい雰囲気のトンネルを通りました。

長いトンネルをしばらく走ると
トンネルの中は三叉路になっていて信号があったのです。
トンネルの中に普通の信号が設置されているなんて初めてのこと
もちろんその後もこんなトンネルを見たことがありません。

上高地方面はそのまま、まっすぐ走ればいいのですが
この信号を左折すると乗鞍岳へ向かうようでした。

さすが、日本一の山岳地帯の雰囲気がいっぱい
ここは信州長野県だと忘れられないトンネルでした。
もしかしたら建設して間もなかったのか
トンネルの中は明るくきれいで広く、都会的な感じだったのです。

あのとき、ずいぶんトンネルが多い所と思っていたのですが
いま地図を見てみると、奈川度ダムあたりから上高地まで
たったの20キロほどで8か所ものトンネルがありました。

 

妻籠宿、馬籠宿を見て奈川度ダム.jpg

この奈川度ダムまでの距離は

私の住んでいた豊田市明和町から

約180キロ

このあたりで一日目は

もう午後の3時か4時頃に

なっていたと思いますが

あと20キロほど走ると

最後のトンネル「釜トンネル」。

釜トンネルを出ると、この旅で一番楽しみにしていた

二度目の上高地です。

 

第3話に続く

 


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第3話 上高地 [黒い玉手箱]



白骨温泉への案内看板や、坂巻温泉、中の湯温泉など過ぎると
いよいよ上高地の入口で釜トンネルが待っています。

私はこの2年ほど前
トヨタの寮住まいの頃、同室で仲の良かったT君(札幌在住)が
セリカの新車を買ったときにドライブに連れてきてもらっていて
そのとき上高地に一目惚れしてしまい、これが二度目の上高地です。

T君に連れてきてもらわなければ、素晴らしい景色の上高地を
知らないままで、この旅で立ち寄ることもなかったでしょう。

釜トンネルは、だいぶ前から一般車はimg001 (14) - コピー - コピー.jpg

通行止めになっているようです。

当時は通行出来たのですが

道はところどころ砂利道で埃っぽく

古い釜トンネルは

これから、下界を離れた上高地に

向かうには最高の雰囲気でした。

 

上高地の何に一目惚れをしたのかというと

穂高連峰を背景にして
大正池からヌッと飛び出していた枯れ木です。
T君に連れて行ってもらって初めてこれを見たときには
ただただギョッとしてしまい、強烈な印象が残っていました。


こんな幻想的な風景に一目惚れ(古いパンフレット)

小.jpg

 

そして二回目、父とまたこの風景を見ることが出来ましたが
それ以来テレビで見たり、森村誠一を初めとする山岳小説では
必ずと言っていいほど上高地が舞台になるので、ますます又行きたいと
思う気持ちが強くなって、いつか三回目の上高地の山岳風景や大正池の
枯れ木を「ぜひ見てみたい」という気持ちが続いているのです。

こちら上高地のシンボル河童橋、もちろん渡りました。
(写真はるるぶをコピー)

img002.jpg


父との訪問のときは
曇っていて穂高連峰は見えた記憶もないのですが
この枯れ木の風景を目に焼き付けて上高地を後にします。

 
上高地を出るときにはもう夕方に08.jpg

なっていたので、松本市に行く途中の

この小さな旅館に宿泊したのですが

せっかく写真が残っているのに

旅館の看板が見えなくて・・・

領収書ももらっていないのか

紛失してしまったのか

そのへんは大変悔しい思いがしますが

こうして親子旅の一日目は楽しく終わりました。


 

あと書き

上高地の帰りに宿泊したこの旅館の右側に
私と父が写っていて、バックには信州らしい山景色が映っています。

しかし、ボーっと眠たそうな顔をしていたので
トリミングして削除してしまいました。悪しからず[ふらふら]

この旅館や、上高地の前後に訪れた宿場町や松本城
黒部ダムなどの写真は何枚か撮ってあったのですが
大好きな上高地の写真が1枚もないのです。

不思議に思ったのですが、きっと上高地では曇り空で
おまけに夕方近くで暗いために写真を撮れなかったのかと思います。

豊田市をスタートして故郷に帰るまでの旅の間はどこへ
行っても夏空の晴天続きだったのに、上高地だけ曇っていたのです。
なにしろ標高1500mの高いところなので
仕方ないのでしょうけど、穂高の山を見れないのは残念でした。

釜トンネル
私が通った2年後の1975年から一般車が全面通行禁止になり
バスやタクシーに乗換えないとならないようです。

 
二日目は松本城を見て黒部ダムへ向かうのですが
第4話は、しばらく間を置いてからまた記事にしたいと思います。


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第4話 松本・大町  [黒い玉手箱]

 黒い玉手箱
(愛知県在住時代の若いころの思い出話)

2年間に渡って書いてきた思い出話も
るは愛知県から北海道に帰るときの話のみとなりましたが
記事を書いていると、二度旅行をした気分になってしまいます。

それではまた41年前の父との旅を
思い出しながら二度目の旅をブログで楽しみたいと思います。

前回は愛知県を出発しての一日目
上高地までの思い出話をしましたが、その続きになります。

(写真やパンフレットは全部当時の古いものです)

 

昭和48年7月27日(愛知県を出発して二日目)

前の晩08.jpg

上高地と松本の国道の中間にあった

小さな旅館(右の写真)に宿泊して

松本市に向かって出発しました。

もう41年も前のことなので

くわしいことはほとんど

覚えていませんが、この旅館は

民宿のような感じの静かな旅館でした。

 

 

旅館から松本市は近かったのでimg001 (13) - コピー - コピー - コピー.jpg

朝早く松本城に着きましたが

私はたしか二度目の

松本城見物だったと思います。

城を見て歩くのも好きだったので

愛知県在住時代に

地元愛知県の
名古屋城、岡崎城、犬山城、新城市の長篠城跡、それから
滋賀県の彦根城や岐阜県の岐阜城などを見物しましたが
名古屋城や岡崎城と違って、
古いままの状態で保存されている
松本城を父に見せてあげたいと思って
立ち寄ったのです。

北海道にはこんな古い歴史の
建物なんかないので、父は大変喜んでいました。

img001 (2) - コピー.jpg

 

松本城を見てから北上

ちょっとこのへんで
思い出したことがあるので話は横道に入りますが
私がトヨタを退社する前の年か、退社する年かと思います。

高校を出たばかりの若い女の子と会話をすると
よく「そうずら」と言うんです。

恥ずかしがらずに方言を丸出しなんですが
それがまた新卒の初々しい女の子に良く似合っていたし
とても素朴な感じの方言に感じたので
私は
「どこの出身なの?」って聞いたことがあったのです。

その女の子が
長野県の北安曇郡と言ってたのが印象に残っていました。
なにせ私は信州にいっぱい興味があったので
信州は方言までいいなぁ~なんて思ったのでした。

 

話は元に戻りますが
松本市から豊科町(現在はあちこち合併して安曇野市)に入り
豊科町を北に向かうと、この北安曇郡になりますが
間もなく
立山黒部アルペンルートの長野県側玄関口、大町市

この大町市の印象がすごく強く、青空ときれいな山景色
活気が感じられる明るい街の印象が残っています。

img001 (2).jpg

 

いよいよ高校時代に
映画のポスターを見て知った
黒部ダムが近くなってきました。img001 (15).jpg

 

それにしてもこんな駐車場の整理券まで
よく捨てないでとっておいたもんです。

松本市からこの駐車場に着く間に
父に言った言葉を覚えているのですよ。

父さん
 
黒部ダムは高いところにあるんだから
 何かもう1枚着たほうが
いいんでないの

しかし扇沢駐車場も暑かったので、そのまま半そでシャツで
扇沢駅からトロリーバスに乗って黒部ダム駅に行ったのです。

標高1,470mの高いところにある黒部ダムでしたが
大勢の人で賑やかで、下界と変わらぬ暑さでした。


 

第5話に続く


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第5話 黒部ダム [黒い玉手箱]

 黒い玉手箱
(愛知県在住時代の若いころの思い出話) 

扇沢駅からトロリーバスに乗って黒部ダム駅に到着。

標高1470mの黒部ダムですが、暑さは下界と
そんなに変わらず大勢の観光客で混雑していました。

今も立山黒部アルペンルートは大人気の観光コースですが
41年前のあの頃も、やはり観光客が殺到していたようです。

周りの山景色がすごい迫力で
7月末なのに雪がたくさん残っていました。
この迫力ある山景色は、もちろん有名な立山連峰なのです。


3,000M級の立山をバックに父と大勢の観光客
(黒部ダムにて・昭和48年7月27日)

 img002 - コピー.jpg

ちょっと話が横道に入って
今から4年か5年ほど前のことになります。

新田次郎原作の映画「劔岳 点の記」を観て感動したのですが
あんなすごい山に自分が登るのは
絶対無理だろうけど
せめて剱岳(つるぎだけ)の
山景色を一度見てみたいものだと思っていたのです。

それがこの写真をよく見ると
私のバックに見える山が、あのとき映画で見た剱岳に
似ている感じなので改めて地図を見てみました。

距離的には、やはり剱岳のような気がするのですが
でも高さが足りないような気もするし・・・

ブログの記事を書いたりしなければ、こんな古い写真など
じっくり見ることもないので気がつかなかったでしょうけど
これが剱岳だったら、私はすぐ近くで見ていたのです。

 

バックの高い山は
一度見てみたいと思っていた剱岳に見えます。
(昭和48年7月27日)

img001.jpg

 黒部ダムから見えるこの山に
心当たりのある方がいましたらぜひコメントください



いろいろ考え始めるとimg001 (6).jpg

ぜひまたこの目で見て

確かめてみたいとも思うのですが

なにせ遠いところですし・・・

 

黒部ダムの見物を終えてから

また大町市に戻って南下、松本方面に戻ります。

北海道に帰るには大町から北上すれば早いのですが
松本方市面から群馬県に入る予定のようでした。

群馬県から栃木県日光が近いので
中禅寺湖華厳の滝を見るのが目的だったのかと思います。

そして松本市の近くから
2泊目の宿を探しながら、山の中の国道を上田市に向かいました。

 

 続きは第6話で

 


追記 

この記事を公開して1週間!
ついに私のバックに写っていた山の名前が分かりました。

この記事を見てnice!してくれたEnriqueさんが調べてくれて
私にコメントをしてくれましたので、さっそく私も教えていただいた
リンクをたどっていろいろ見てみました。

山の名前は「黒部別山(2353m)」でした。

山の名前を知りたくて仕方がなかったのですが
これでスッキリ!いつか改めて黒部ダムへ行けたら
この山姿をもう一度じっくり見てみたいものです。

「剱岳」ではなくて少しは残念ですが、「黒部別山」という
自分には新しい名の山を知ることが出来て嬉しく思います。

Enriqueさんには本当に感謝です。

 

 

 

 

 


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第6話 松茸山荘 [黒い玉手箱]

黒い玉手箱
(愛知県在住時代の若いころの思い出話) 

2年間に渡って書いてきた40年ほど前の思い出話ですが
最後は、愛知県から北海道に帰る様子を思い出しています。

すっかり記事更新が遅れてしまいましたが
41年前の私のバックに写っていた「剱岳」だったら・・・と
思っていたこの山の名前が、親切な方からのコメントのおかげで
黒部別山(くろべべっさん)と分かりました。

img001.jpg

さらに今日(日曜日)の夕方、またいろいろ調べてみたら
まったく同じようなところから写した写真が見つかりましたが
有りがたいことに、写真を無断で使用してもいいということでした。
もう疑いの余地のないまったく同じ山です。

この山の正式な名前は黒部別山南峰(標高2300m)
(フリー写真素材集から借用)
sample.jpg


山景色が異常なくらい好きな私にとって、山の名前が分かることは
嬉しいことですが、この山は41年前にたまたま私と一緒に
写っていた
縁のある山だったので余計嬉しいことでした。

見知らぬ方からのコメントで、この「黒部別山」の名前を知り
あらためて、ネットって有りがたいものだな~と思った次第です。

詳しくは前回の黒部ダムの記事の最後やコメント欄をご覧ください)

よく見比べると「剱岳」の方が標高も高く
スケールも大きいのですが、それでも北海道の最高峰
大雪山系の「旭岳」よりも高く険しい立派な山のようです。


それでは疑問も晴れたところで
前回の記事黒部ダムの続き第6話を始めます

 

愛知県を出発して、妻籠、馬籠、上高地、松本城
そして黒部ダムを見た後は、松本市の方まで戻りましたが
松本付近からは夕方になっていたので
2泊目の宿を探しながら山道の国道を上田市に向かいました。

しばらく走ると道路沿いに温泉宿の案内の看板を見ました。

上田市までまだ遠く、山の中なのでこの看板の温泉宿に
泊まろうと思って国道から外れてさらに山道を走ります。

ようやく着いて一安心、この2晩目に宿泊した
温泉宿の名は「松茸山荘」というのですが
周りはなにもない本当に山の中
静かで涼しくて、今も強く印象に残っていました。

その後何十年かして、この宿がテレビの旅番組か何かで
紹介されていたのですが、とても懐かしく見たのです。

 

そして驚くことにP5200004 - コピー.JPGP5180002.JPG

旅の雑誌

るるぶ」にも

載っているんです。


本当に嬉しいやら

懐かしいやらでした。

 


私のことですから、もちろんそのときの
思い出のパンフレットを大事にとってありますよ[わーい(嬉しい顔)]


41年前の古いパンフレット

img007.jpgimg001 (7).jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうですか、古いパンフレットを見ると「本当に静かな山の中」
という私の記憶が、ウソでないことがわかるでしょう。

この松茸山荘のある場所、あの頃は四賀村といってたのですが
これも合併して現在は松本市になっていました。

昔話をするたびに、いろいろ調べてみるのですが
どこもここも合併されているので少し寂しくなります。
あくまでもパンフレットのキャッチフレーズ
心のふるさと四賀村であって欲しかったのですが・・・

img001 (12).jpg
そして

これが思い出の証拠の

穴沢温泉保養センター

松茸山荘」の領収書。

41年経っても

日付も松茸山荘の

スタンプ文字も鮮明でしょう。

これで日付や住所が分かるので

ブログ記事の昔話が

だいぶ正確になるのです。


ただし松茸を食べたかどうかは全然思い出さないのですが
松茸を売りにしている宿だったので、たぶん食べたのでしょう。

とにかく静かで涼しくて
父と二人で気持ちよく泊まった記憶があるのです。

それにしても、温泉宿でビール1本と
宿泊費が二人分で4,000円弱とずいぶん安い時代でした。

そんなこんなで1泊目は上高地の近く
2泊目はこの四賀村(現在は松本市と合併)で宿泊。
翌朝(愛知県を出て3日目)は
信州最後の地、上田市に向かうことになります。

 

第7話に続く

 

 

 

 

 

 


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第7話 碓氷峠 [黒い玉手箱]

黒い玉手箱
(愛知県在住時代の若いころの思い出話) 

2年間に渡って書いてきた40年ほど前の思い出話ですが
最後は、愛知県から北海道に帰る様子を思い出しています。

 

昭和48年7月28日(愛知県豊田市を出発して3日目)

長野県四賀村の「松茸山荘」で気持ちのいい朝を迎え
上田市小諸市を通って信州最後の地軽井沢に向かいました。

若かったこのとき、上田市が真田氏発祥の地
という有名な城下町なんて知らなかったので
立ち寄ることもなく素通りしてしまったのです。

いま思うと本当に残念なことでしたが
上田市の名前と夏休みのためか、行きかうクルマで
賑やかな街の様子が薄っすらと記憶に残っていました。

上田市から国道18号線を走り軽井沢を過ぎると
長野県と群馬県の県境にあるのが碓氷峠(うすいとうげ標高960m)
この峠で大好きだった信州ともお別れ、群馬県に入ります。


碓氷峠を下ったあたりのドライブインで昼食。
たまたまこのドライブインのマッチを記念にとっておいたので
このドライブインで昼食したことが分かりました。

img001.jpg

 

(注[exclamation])ちょっとここで3年ほど前の新しい話になります

川口市に住む兄にimg001 (3).jpg

甘楽(かんら)町など

歴史の古い町を見物するために

この碓氷峠の近くまで連れてきて

もらったことがありました。

いま世界遺産の話題でいっぱいの

富岡インターを降りるとすぐに

甘楽町や安中市、それから碓氷峠や

軽井沢も近くにあります。

道路標識を見るたびに、「碓氷軽井沢」
「碓氷峠」「軽井沢」など、懐かしい地名が出てきます。

そして碓氷峠のすぐ近くまで来たときに
ああ、あのとき父と二人でこの近くを走ったんだ
とても懐かったのですが、高速道路が出来て一般道は
空いているせいか、今はとても静かな雰囲気でした。


話は元(41年前)に戻ります

 

碓氷峠を下ると、当時は公害で有名だった街安中市

子供の頃から学生時代にかけてずいぶん聞いた市名でしたが
安中市のカドミウム汚染による公害は1937年からというから
私が生まれるだいぶ前からの話で、訴訟が終わったのが1986年。
ずいぶん長い間、この地域に住んでいる人たちが苦労したようです。

 

これは最近知ったのですが
上田市から日光まで「日本ロマンチック街道」というのです

このとき私は軽井沢から安中市(榛名山側の国道18号線)を通って
沼田市に行ったのですが、地図の赤い国道を走って沼田市へ行けば
この「日本ロマンチック街道」をほとんど前線走っていたのです。
あとで出来た街道の名前なので仕方ないのですが少し残念でした。

上田市から日光まで「日本ロマンチック街道」
(ネットから借用)

008.gif

 

高崎、前橋、渋川を通過すると沼田市ですが
その話は次回にします。

 

第8話終わり

 


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第8話 群馬県沼田市 [黒い玉手箱]

黒い玉手箱
(愛知県在住時代の若いころの思い出話) 

2年間に渡って書いてきた40年ほど前の思い出話ですが
最後は、愛知県から北海道に帰る様子を思い出しています。

 

昭和48年7月28日(愛知県豊田市を出発して3日目)

高崎、前橋、渋川を通って沼田市に着きました。

 

この沼田市に着いたとき思い出したんです。

あれはまだ中学生のときでした。
少しの間ですが文通していた相手がこの街にいたのです。

あぁもちろん女の子ですよ[黒ハート]
中学生になって男同士で文通なんて気持ち悪いですからね。
2~3回手紙をやりとりしてから写真を送ってくれたのです。
美人ではなかったけど、丸顔でぽっちゃりして可愛い子でした。

こりゃぁ私も写真を送らなくちゃと張り切って送ることにしたのです。
顔には自信があったのですが??どうせ送るなら
一番良く写ってる写真と思って、1枚選んで自信を持って送ったのです。

し・し・しかし[exclamation×2]

それからぷっつり返事が来なくなりました[もうやだ~(悲しい顔)]

フラれたと思いこんでいましたが、郵便配達員が配達が
面倒くさくなって、どこかにポイと捨ててしまう事件もあったので
もしかしたら私の写真は相手に届かなかったのかもしれませんけどね。

あのまま文通が続いていたらこの街で初対面
そして恋の炎がメラメラと燃え上がって[揺れるハート]
きっと、そのまま沼田市に住みついていたでしょう・・・

 
そんなに世の中うまくいきませんね~[わーい(嬉しい顔)]

その沼田市を後に、片品村を通って日光へ向かいます。


第8話に続く


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第9話 片品村から日光へ [黒い玉手箱]

黒い玉手箱
(愛知県在住時代の若いころの思い出話) 

2年間に渡って書いてきた40年ほど前の思い出話ですが
最後は、愛知県から北海道に帰る様子を思い出しています。

 

昭和48年7月28日(愛知県豊田市を出発して3日目)

沼田市を通って日光へ行く途中、いろは坂に行く手前
だったと思いますが、今もはっきり覚えている風景がありました。

車中から見た風景が素晴らしかったのです。
農家の人達が畑仕事をしていましたが
普通の田園風景とは違った高原の雰囲気がいっぱいあって
いつかこの道路をまた走ってみたいと思うほど爽やかな風景でした。

たぶん日本ロマンチック街道の群馬県片品村だったのかと思います。

片品村からいろは坂に行く前に、とても高い峠を走った
覚えがあるのですが、金精道路と書かれた領収書がありました。

img001 (10).jpg

この金精道路は
周りを日本百名山の白根山(2,578m)や男体山(2,486m)の
すぐそばを通るので、2,024mの高いところを走っていたようです。

カンの鋭い人は
男・根・精なんて文字がつく名に気がつくかと思いますが
たぶんみんな関係があるんでないかと思います。
金精峠には男根を御神体として祀られる金精神社があるそうです。

 

そしてヘアピンの連続したimg001 - コピー (2).jpg

いろは坂を走ります。

助手席の父も、カーブの連続に

驚いていた記憶が残っていますが

ネットで調べたら、いろは坂の道路の

正式な名称は日光道路というらしいので

右の領収書はたぶんいろは坂のものと思います。

                            

そして中禅寺湖につきましたがimg001 - コピー - コピー.jpg

父がこの旅で

一番楽しみにしていた日光。

後々、父はこのあたりが一番

思い出に残ったようでした。

 

日光から会津若松に向かうm_2-cf22e[1].jpg

国道121号線を北上したところで

この日も夕方になってしまったので

山の中の民宿に宿泊します。

この民宿は

栃木県の藤原町という町の

小さな民宿だったのですが

山の中だったのでとても静かで家庭的な民宿でした。

img001 (9).jpg
 

 


 第10話に続く

 


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第10話 最終回 [黒い玉手箱]


愛知県在住時代の思い出話
最後の記事愛知県から北海道に帰る様子の続きが
遅れてしまいましたが、今日が最後の記事になります。



昭和48年7月29日
(愛知県を出て4日目・23歳のとき)

 

m_m_2-cf22e5B15D[1].jpg

栃木県藤原町の山の中にあった

静かで小さな民宿を出発して

北海道に向かって北上。

 

いよいよ東北福島県

会津若松や猪苗代湖へ向かいましたが
もう早く北海道に帰りたくなってしまって
会津若松も猪苗代湖も
クルマの中からチラッと横目で見ただけ。

(後々、助手席の父に
もっと東北もゆっくり見たかったと愚痴を言われました)

img001 (5).jpg

 

東北では唯一、会津磐梯山だけゆっくり見てきたようで
有料道路の通行券や古い写真が何枚か残っていました。

img001.jpg

 

会津磐梯山を見た後は、記憶もほとんど残っていませんが
ただ、山形県天童市内を走っているとき
父が「天童市は将棋の駒の産地」だと言った言葉は覚えています。

この日、7月29日の旅館の領収書だけが紛失してしまったので
どこに泊まったのか、どこを通って青森県に入ったのか
まったく分からなくなったので、天童市から青森県むつ市までの
話は省略しますが、ここだけ記憶から抜けるのが本当に残念です。

 

薄っすらと、田沢湖を見て朝のうち盛岡市を
通ったような記憶もあるのですが
次に思いだすのは、単調な下北半島の田舎道に飽きたころ
予想外なことに突然大きな街に入ったので驚いたのです。


下北半島を走っていると、荒涼としていたので
とても大きな街なんてありそうな雰囲気でなかったのでした。

その街は

本州最北の市

むつ市です。img001 (8).jpg

 

 

そしてこの日は本州最後の宿泊地

北海道を目の前にした

海辺の下風呂温泉に宿泊。

ここまで来て「恐山」を

見なかったことは悔いが残りました。

 

 

昭和48年7月31日

本州最後の宿泊地を後に少し走ると本州最北端の大間町。
ここから函館行きのフェリーに乗りました。

img001 (10).jpg


 

愛知県からの旅のあいだはずーっと好天が続いていて
この日も天気が良く、父と二人で甲板から青い海と近づく北海道を
眺めていたら、2時間ほどの距離なのであっという間に函館到着です。

img001 (11).jpg

 

やっと北海道の土を踏みましたが、函館から故郷日本最北の村まで
まだ650キロ以上の長い距離なので、この日は札幌の親せきの家に一泊。

 img001 (3).jpg

昭和48年8月1日

函館からはほとんど記憶がないのですが
故郷が近くなったころ、あのときのアイドル歌手麻丘めぐみ
私の彼はひだりきき」がカーラジオから流れてきたのを思い出します。

故郷に着いた日、オホーツク海の冷たい空気が入り込んで
夕方には父がストーブに薪を入れて火を焚いてくれました。

いくら故郷が日本最北の村とはいっても
灼熱の愛知県豊田市から逃げるようにして帰ってみたら
真夏にストーブを焚きながらビールを飲むことになるなんて・・・
 


黒い玉手箱」
(愛知県在住時代の思い出話)


終わり


あとがき

今まで記事に利用した古い領収書やパンフレットなど保管していた
この黒い箱は、いつも昔話に出てくる父にもらったものでした。

5.jpg

この箱を開けると
当時の思い出がいっぱい入っているのですが、浦島太郎なら蓋を
開けると年を取るのに、私の玉手箱は蓋を開けると逆に若帰るのです。

ですから玉手箱といっていいのかどうかわかりませんが
2年と4カ月の長いあいだダラダラと書いてきた
この箱の中の思い出話「黒い玉手箱」を終わりにしたいと思います

長いあいだの昔話に
お付き合いありがとうございました


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